2022年11月13日(日)降誕前第6主日 宣教要旨

ルカによる福音書20章27~40節

「復活についての問答」

20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。

20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。20:30 次男、20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。20:32 最後にその女も死にました。20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

20:39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。20:40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

復活はないと言っているサドカイ派の人々が、主イエスのところに来て質問しました。

 旧約聖書の中に定められている結婚についての法律。一つの律法を取り上げています。「レビレート」、あるいは「レビラート」と呼ばれる結婚の定めです。

 「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない。」

 一つの家が代々、神さまの祝福を受け継いでいくために、その家に子どもが与えられて、子孫が続いていかなければなりません。そのために定められた律法です。

 一番上の兄が結婚して妻をめとる。その夫妻に子どもが与えられれば、それで良いのですが、そうではなくて、子どもが産まれずに、夫が死んでしまう。そうするとその家は正当な跡継ぎが無くなるわけです。

それで、弟が、兄嫁と結婚する、そして、子どもをもうける。その子どもは正当な跡継ぎである長男の子どもということになって、祝福が継承されていくというわけです。

 今でも、イスラエルの人々の中に、この「レビレート」と呼ばれる結婚の定めが実施されているのかはわかりません。しかし、少なくても、聖書の時代は、この法律が生きていて、誰でも、これは聖書の定めだと信じ、認めていたことでありました。

 そこで、この聖書の定めを根拠に、サドカイ派の人々は、復活を信じるのは見当はずれのこと、聖書は復活ということを教えていると主張することは、滑稽なことだと言いたいために、主イエスに意地悪い質問をしてきたのでした。

 サドカイ派の人々は、神さまの祝福、その約束を、この地上の中に、その限りにおいて、受けとめ認めようとする人々でありました。

 その点では、福音書の中にしばしば登場するファリサイ派の人々とは違います。もちろん、ファリサイ派の人々も、目に見える現実の中に神さまの祝福を認めるということにやぶさかではなかったでありましょう。しかし、その祝福は、この地上において突き詰められるということではありません。わたしたちの地上の現実を越えたところにこそ認められると信じていたのでありました。

 その点で、サドカイ派の人々は、主イエスもファリサイ派の人々に同調していると見て取っていたわけです。

それで、このような質問をしてきたのでした。

 復活を問題にするということは、現代においては多くの人々にとってはもはや論外である、少なくとも科学的な理性をもった人間の考えることではないということになっているのかもしれません。

 ここでのサドカイ派の人々の質問に、理解を示すことができる。納得するということになるのでありましょう。

 しかし、この時、主イエスは次のように答えました。

イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」

 復活を信じる、それは、人間の頭の中の遊びではありません。

 わたしたち一人ひとりが命を与えられ、この地上に生かされている。その事実を、どのように受け取ったら良いのだろうか。わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか。その問いに対する答えです。

 主イエス・キリストも、目に見える世界が神さまの御手の中に覚えられているということを教えてくださいました、ローマ皇帝カイザルに対する税金を納めるように教えてくださいました。神さまを恐れないような者、信仰の民族、イスラエルの民を圧迫しようとさえする人々の支配も、神さまの御手の中にあって立てられている秩序として尊重されるべきだとお諭してくれました。聖書的な信仰は、大変現実的なのです。

 けれども、目に見える現実が、神さまの御手の現れのそのすべてではありません。ただ目で見るだけでも、じっと目をこらして見つめるならば、いたるところで現実の破綻があらわれます。まして、永遠なる神さまの言葉のもとに引き出してきたならば、それは空虚であり、偽りの仮面は見事にはがれるのです。

 主イエス・キリストのお答えに、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからであると言われたのです。

 「天使に等しい者」というこの主イエスのお言葉ですが、元の言葉を丁寧に眺めて見ると、天にある天使、天のみ使いのようになるのだという言葉です。

 天使と翻訳して良い言葉の前に、「天の」あるいは「天にある」という言葉が付け足されているのです。

 以前に用いていた口語訳聖書は、ここを正確に翻訳していました。「天にいるみ使いたちのようになるのだ」です。

 そこで、神さまのご支配、その力、ご意志の現れを言い表す時、神さまの名を表現したいとき、「天」という言葉を使ったのです。天の国という言い方もそうです。神の国というべきところを、天の国と言いました。

 ここでも、主イエスは注意深く言葉を選んでおられるのではないでしょうか。

 「天にいる御使い」。ただ単に天使、御使いというのではない。「天にいる御使い」。それは、神さまのもとにいる御使いということです。神さまの御手の中にいる者、神さまがそのふところに入れていてくださる者、それが、この言葉の意味だというのです。

丁寧に言い換えると、「神さまの御手の中に抱かれている天使のような存在」。 神さまの中に根を下ろすことによってのみ生きることができる存在となります。

 人は皆、死にます。しかし、死においても神さまの御手の中にあるということは決して消えないのです。

 神さまの御手の中にあるという確かさは、決して失われることはありません。神さまはわたしたちを手放すことはなさらないのです。

 その御手の力をもって、わたしたちを新しくしてくださる。新しい存在として造り変えてくださる。神さまの愛の手の中で新しい命を得る。そういうことを主イエスは言われたのです。

 ところで、このサドカイ派の人々の質問は、主イエスが十字架の死を迎えようとしているほんの数日前になされました。

 十字架にご自身を差し出し、引き渡される、その目前に、復活などということがあるというのですかと主イエスに質問しているのです。

 それは、あなたの死、あなたの十字架は、何の意味があるのか、無駄死にするおつもりですかという問いでもあったのではないでしょうか。

 犠牲、わたしたち人間の救いのためにご自分を犠牲にする。その主イエスの道行きをあざ笑ったのです。

 無力になって、貧しさ、低さの中に、ご自分を置かれる。苦しみと死と人の罪の中に、ご自分を引き渡しなさる。その犠牲をお引き受けになる。

 それが天の父の御心であられることを知って、激しい愛の御心にご自身をお委ねなさる。 その信頼と献身を揺さぶろうとする問いであったのではないでしょうか。

 しかし、主イエスは、ここでも繰り返し、ご自分の歩み通される道をお示しになります。

 あなたがたは、このような愛の激しい命の力を持っている神さま、その神さまの力の中で捕らえられ生かされる。主イエスはそう言われたのです。

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