2020年11月15日(日)降誕前第6主日 宣教要旨

マタイによる福音書25章31~46節

「すべての民族を裁く」

25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、25:33 羊を右に、山羊を左に置く。

25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』

25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

今日の主イエスの教えは、最後の審判の教えです。

キリストは、ご自分のことを「人の子」と言いました。

ダニエル書に預言されているように、人の子は、栄光に輝いて、天使たちを皆従えて来る時、その栄光の座に着きます。

キリストはまた来られます。その時、すべての国の民が集められ、裁かれます。羊飼いが羊と山羊を分けるように、羊である正しい人たちは右に、山羊である悪い人たちは左にと振り分けるというのです。

羊が正しい者の象徴で、山羊が裁かれる者の象徴です。

イスラエルでは、山羊も家畜化され、昼間は羊と一緒に放牧されました。そして夜になると、山羊の方が寒さを嫌うのだそうで、羊と山羊は別々に分けるのだそうです。主イエスのお話は、イスラエルの人々の見なれた光景であったのでありましょう。

山羊は、悪い者の代表でした。旧約聖書、後期の預言者のエゼキエル書、ダニエル書、ゼカリヤ書では、山羊を敵対者の象徴、悪の象徴としています。

当時、羊と山羊のイメージを、善悪のイメージの象徴と、人々は思っていたわけです。

右と左に振り分けられるのですが、王であるキリストは、最初、右側の良い羊たちに、祝福の言葉を話し、続いて、その理由を言います。

 わたしが、すなわち、キリストが飢えていた時食べさせ、のどが渇いていたとき飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだというのです。

キリストに飲ませ、食べさせ、宿を貸し、着せ、見舞い、訪ねたというので、正しい人たちは、自分たちがそんなことをしたことがあったかと、逆にとまどいました。

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしてくれたのは、わたしにしてくれたことであるというからです。

主イエスが、たとえを語られた状況は、エルサレムの最後の1週間でした。多くの人たちが、キリストの話を聞くために集まっていました。

最も小さな者という言葉は、ここではじめてでてくる言葉です。小さな者とは、弟子たちのことを指していると思います。

マタイによる福音書10章で、主イエスは、12人の弟子たちを選び、伝道に派遣します。その派遣説教が記されています。

伝道は困難で、清貧が求められました。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も2枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。

与えるものは与えられます。托鉢という生き方です。キリストのために働く者は、必要なものは与えられ、施されるというのです。

最も小さい者の一人とは、直接には、このような、弟子たちのような伝道者のことでした。食べさせ、飲ませ、宿を貸し、着せ、見舞い、牢に入れば訪ねてやった、それは、キリストに対してふるまったことと同じだというのです。

わたしたちも、飲食や住居のことで、困っている人々への態度、素振りで裁かれるのでしょうか。

この最後の審判の様子は、いくつもの絵の題材になりました。羊は右に、山羊は左にと、天秤で重さを計る様子が描かれます。重いほうがいいのです。

あなたはどなただったかと、終わりの時、キリストが言われるのです。

わたしたちが山羊であれば、呪われた者どもと言われ、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れられるのです。いろいろな弁解も無用ということでありましょう。

正しい者は右に、悪い者は左にという教えは、わたしたちに悔い改めをせまるのです。

実は、わたしたちは、羊の群れに加えていただいています。山羊の役を、キリストが引き受けてくださったからなのです。このことを、わたしたちは、旧・新約聖書全体から聞いているのです。

主イエス・キリストは、エルサレムで十字架に死なれました。罪なき子羊の死は、山羊の役を引き受けた死であったのです。

レビ記16章、贖罪の雄山羊、スケープゴート、身代わりの山羊の話があります。

一年に一回、贖罪の日に、雄の山羊がほふられて、神さまにささげられました。神さまの怒りをおさめていただくためなのです。

罪人であるわたしたちは、どれほど善行を積んでも救われないと思います。

山羊も、わたしも小さな者たちのために食べさせ、飲ませ、着せ、宿を貸し、見舞い、訪ねました。しかし、山羊の弁解を、神さまを受け取らないのです。

最後の審判の時、わたしたちがどう裁かれるのは、謎が残ると思います。しかし、はっきりしているのは、最後の審判にかけられたキリストが、山羊のために、十字架で、罪なき子羊として、山羊のように裁かれたということです。

マタイによる福音書20章、ぶどう園の気前のいいご主人のたとえで、朝から働いた者も、昼から働いた者も、夕方から1時間ほどしか働かなかった者も、ご主人は同じ賃金をあげたいのだという話があります。

朝から働いた羊たちも、審判の天秤は重いのです。夕方に来てわずかしか働かなかった山羊も、山羊にも同じ賃金をあげたいという、キリストの十字架の恵みがたとえられたのではないでしょうか。

すべての国の民が集められ裁かれるのですが、復活の主は、あなたがたはすべての民を私の弟子としなさいと言われました。キリストのお考えの本心は、山羊を見つけて裁いてやろうというのではなく、すべての民を自分の羊としようというものだったのです。

 良い羊飼いは羊のために命を捨てました。その恵みに聞いて、また歩みたいと思います。

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