2020年12月6日(日)降誕前第3主日・待降節第2主日 宣教要旨

マタイによる福音書13章53~58節

「ナザレで受け入れられない」

13:53 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、13:54 故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。

13:55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。13:56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」

13:57 このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、13:58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

クリスマスは、わたしたちを故郷、自分の生まれた家、生まれた土地に帰す物語といえます。

マタイによる福音書のクリスマスの物語では、東の占星術の学者たちが、星に導かれ、ユダのベツレヘムに生まれたメシア、救主を拝んで帰りました。ある先生が、ベツレヘムは、学者たちの故郷であったのではないかと話されたことがあります。

紀元前8世紀、ユダの都エルサレムは、バビロニアに攻められ、指導者たちは、1500キロ東、バビロンに捕われます。バビロン捕囚といいます。

 ペルシャによって彼らは解放され、ユダヤに帰るのですが、実際には、多くの人たちがペルシャに残ります。ディアスポラのユダヤ人といいます。その解放奴隷の末裔が、学者となって生活していたのでありましょう。

ユダヤの王が生まれたという星が現れ、学者たちは故郷に帰ったのだと思います。

ルカによる福音書の2章、クリスマスの物語では、マリアとヨセフは、住民登録をするために、ユダのベツレヘムに帰ります。ベツレヘムが自分の町、ユダ族の先祖の町、本籍だったからです。

そして、その地方で羊飼いをしていた人々、羊飼いたちは、主の天使たちの知らせで、今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった、この方こそ主メシアであると、キリストの誕生を知ります。ベツレヘムへ行こうと言います。ベツレヘムは、羊飼いたちの故郷であったのではないでしょうか。

今日の聖書ですが、主イエスは、故郷ナザレに帰って、会堂で教えました。

3つの福音書では、この時のことを、もっと違うかたちで、あるいはもっと長いかたちで報告します。

マルコによる福音書では、そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、その他は何も奇跡を行うことがおできにならなかったと報告します。

今日の、マタイによる福音書では、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかったと報告します。

主イエスは、故郷では、何も奇跡を行うことができなかったというか、あまり、奇跡をなさらなかったということでありましょう。

最初の時代の教会は、主イエスが亡くなってから、復活の主イエスをキリストと信じた教会でありました。

自分たちは郷里で伝道したがうまくいかなかったという経験をしていました。そして、主イエスも失敗なさった。自分たちも同じ失敗をしていると思ったのではないでしょうか。

今日のお話、ナザレで受け入れられないというのは、望ましくないお話、主イエスにはふさわしくないお話であったのです。

主イエスはガリラヤ中を巡り回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやしていきます。

 マタイ福音書12章、群衆を教えている主イエスのところに、母マリアの使いがやってきて、身内の人たちは、主イエスの気が狂ってしまったのではないかと心配していると言い、主イエスを取り押さえ、連れ戻そうとするのです。

主イエスは使いに、わたしの母、またわたしの兄弟、姉妹とは誰のことか。私の周りにいる人々、主イエスに従ってきた弟子たちが、話を聞きに集まっている人々が、この人たちこそわたしの兄弟姉妹、また家族であると言われました。

しかし、主イエスにはふさわしくないお話もあったのです。故郷ナザレの人々は、主イエスを受け入れませんでした。預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけであるのです。預言者、故郷で敬われずということなのです。

郷里伝道という言葉があります。家族伝道という言葉もあります。うまくいかないのです。

主イエスが故郷にお帰りになり、会堂で教えておられると、人々は驚いてしまいました。

驚いたという言葉は、聖書には何箇所もでてくる言葉です。この驚いたという言葉は、本当にびっくりしたという意味です。

7章28節に、同じ、驚いたという言葉が出て来ます。山上の説教を聞いた人々が、主イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いたとあります。

ナザレでも、びっくりして、あっけにとられるほど、故郷の会堂での主イエスの教えに、人々は驚いてしまったのです。

人々はつまずいてしまったというのです。

つまずくというのは、つまずきの石のことです。つまずいて、人は転んでしまった、倒れてしまったというのです。人々は、主イエスの教えに、腹を立てて、帰っていったのです。

もう少し、その理由を考えてみますと、この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろうか。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないかと。

この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろうか。いったいどこからこういう知恵と、奇跡を行う力を得たのか。どこからか、天からか、地からか、誰から得たのだろうかと思ったのです。

そして人々はいぶかしがり、まわりを見渡し、何だ、大工の息子ではないか、母親はマリア、兄弟も知っているし、姉妹もわれわれと一緒に住んでいると思ったのです。

主イエスの故郷、ナザレという村は、人口が200人ほどの村であったそうです。

わたしたちは、よくよく、自分の知っている世界の中でしか物事を見ないのです。人は、どこからその知恵を得たのか、まだ知らない世界から知恵を得たかもしれないとは思わないのです。まだ知らない世界からのもの、すなわち、神さまからの知恵とは思えなかったのです。

古代、有名な説教者で、クリュストノモスという人がいました。クリュストノモスというのはあだ名で、黄金の口という意味です。説教がすぐれているので、金口イオアン・ヨハネと言われました。4世紀のコンスタンチノポリスの主教でした。

とにかく、説教がすぐれているので、あの人の口は 金だと言われたのです。

クリュストノモスの説教の、この個所です。主イエスの郷里の人々は、主イエスをうらやみねたんだというのです。

主イエスが、預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけであると言われたのは、主イエスのわたしたちへの優しさだというのです

あたがたは特別でない。世々の人々も預言者を拒んだ。しかし、やがて受け入れる日が来るのではないかと暗に言われたのではないかというのです。

そうやって、人は、主イエスを十字架にかけたのです。

預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけであると言って、主イエスは、その十字架を預言したのではないでしょうか。自分は故郷では敬われない。故郷でははずかしめられ、罪人として裁かれるとだと言ったのではないでしょうか。

神さまは、このようにして、わたしたちを、主イエスを拒否する、自分の故郷に固執するわたしたちを、主イエスを十字架にかけられて愛しぬかれたのです。

主イエスによって、わたしたちの罪を赦してくださったのです。

アドベントには、クリスマスには、いつも、主イエスの十字架の話をなさる先生がいました。人の罪を赦すということが、御子の誕生の秘密だというのです。

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