2020年12月13日(日)降誕前第2主日・待降節第3主日 宣教要旨

マタイによる福音書11章2~15節

「洗礼者ヨハネと主イエス」

11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」11:7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。

11:8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。

11:9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。

11:10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。

11:11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

11:12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。

11:13 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。11:14 あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。11:15 耳のある者は聞きなさい。

アドベントの第3日曜日を迎えました。昔から喜びの主日と言われます。クリスマスの喜びが近づいているアドベントの、喜びの日曜日ということです。

しかし、わたしたちの人生は、喜びよりも悲しみの方が多い人生ではないでしょうか。

老いることや病気、思い通りの人生を歩むことはできません。悲しみの現実があります。しかし、わたしたちの内側には、喜びがあると思うのです。

欧州合同原子核研究所が、国際宇宙ステーションの観測装置で、物質と出合うと消えてしまう反物質でできた「反ヘリウム」と見られる粒子が宇宙を飛び交っているのを検出したと発表しました。

これまで自然界で発見された例はなく、本物と確認されれば、宇宙を満たすとされるが正体不明の「暗黒物質」の存在確認につながる可能性があるとのことです。

検出したのは、ヘリウムと重さがほぼ同じで、帯びている電気のプラスとマイナスがヘリウムとは逆の粒子です。

ステーションの装置で、5年間に観測した900億個を超える粒子を分析したところ、ヘリウム原子核が37億個あったのに対し、反ヘリウムとみられる粒子が数個見つかったのです。

反ヘリウムは、反陽子2個と反中性子1個で構成されます。暗黒物質は互いに衝突すると、反陽子などを生み出すとされ、それを材料に反ヘリウムができた可能性が考えられているのです。

反物質は、物質と質量などが同じだが、電気的性質などが逆のために出合うと消えてしまう物質です。宇宙の誕生時には物質と反物質が同数あったが、反物質が消え、残った物質で宇宙が構成されたと考えられています。マイナスの電子に対するプラスの陽電子や、陽子に対する反陽子などが自然界で見つかっています。反ヘリウム原子核は人工的に合成されたことがあり、存在が確認された「最も重い反物質」とされるとのことです。

洗礼者ヨハネは先駆者でありました。ヨルダン川で、悔い改めよ、天の国は近づいたとの、悔い改めの洗礼運動を展開しました。

斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれると。

洗礼者ヨハネのところに 人々は集まり、ヨルダン川で洗礼を受けていったのです。

そのヨハネは、今、牢の中にいます。

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞きました。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。来るべき方、メシアはあなたでしょうかと問うたのです、

そして、使いへの、主イエスの返答が今日の箇所です。

マタイによる福音書の書き方では、出来事が前後します。14章で、洗礼者ヨハネは、ガリラヤ、ベレアの領主、ヘロデ・アグリッパの再婚に異議をとなえて牢に入れられます。兄弟フィリポの妻ヘロディアとの再婚に、兄弟の妻をめとることは律法では許されていないと主張したのです。

ヨハネの弟子たちが帰ると、主イエスは群衆にヨハネについて話し始められました。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。

人間は一本の葦にすぎない。自然の中で一番弱いものだ。だがそれは考える葦であるとは、パスカルの言葉です。

洗礼者ヨハネのことを、使徒的人間、空洞の人間という人がいます。

洗礼者ヨハネは、預言者、空洞の人間です。空っぽの人間、空っぽの箱です。

ですから、ヨハネは、神さまの言葉、御心を中に入れ、伝えることができました。

わたしたちの体には、いろいろなものが詰まっています。罪や欲、恥で体の中がいっぱいなのです。大事な神さまのことを入れるスペースがないのです。

洗礼者ヨハネは、ただキリストを伝えました。橋渡しです。体を空洞の箱にして、楽器のように、キリストを振動させました。

プラスではなくマイナスの人間だったのです。預言者、それ以上の人間だったのです。

内村鑑三という人がいました。まさに荒野の預言者でした。

『後世への最大遺物』という、講演を記録した本が出ています。

わたしたちが後世に残すものは、第1にお金、次に事業です。しかし、内村は、お金もないし、事業家でもない。それは、自分は残せないと言います。

それでは。後世にわたしたちが残す最大の遺物は、自分の生き方ではないだろうかというのです。

そう考えれば、自分の生涯が、誰にでも残せるものだというのです。それも、考えがあっての生き方、生きたという生涯のことでありましょう。

教会も、主キリストの体です。キリストの恵みを、この体に盛っています。

主イエスはお答えになりました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

わたしたちは、この主イエスの到来、誕生を喜ぶのです。

ニューヨークにキリストが来られるというニュースが流れました。

一人のお金持ちの社長さんが、最近買った車で、キリストを迎えに行こうと思い立ちました。しかし、考え込んでしまいます。車に乗っていただき、ニューヨークを案内すると、おそらく途中途中で、老人を見れば乗せてやったり、病気の人をいやし、助けたり、困っている人を励ましたり、悲しんでいる人を励ましたり、車に乗れないほどの人が乗り、たいへんなことになってしまうと思い、迎えに行くのをやめたのです。

迎えに行こうと思い立ったのは、彼だけでありません。しかし、皆、こちらが迷惑してしまうと、とうとう、キリストが来られた日、誰も迎えに行かなかったといいうのです。

高見順という小説家に、『おれの期待』という詩があります。

早朝、徹夜の仕事を終えて散歩にでた作者が、新聞配達の少年を見かけます。新聞配達の少年と自分を重ね、自分は今までいったい何を配達してきたのだろうか。作家ですからいろいろなことを書いてきたはずですが、いったい何を配達してきたかと、ふとむなしさに襲われるのです。少年は、何を配達しいているのか。知らないで配達をしているのかもしれない。それでいい。自分も、もう何も配達できないような気にもなるが、いや、おれは自分の心を配達しようと思います、自分をふるいたたせるような詩です。

洗礼者ヨハネは、自分はメシア、キリストではない。わたしは荒野で叫ぶ声である。

新聞配達の少年のたとえのように、自分を配達するのではありません。その人は、わたしの後から来られる方、すなわち、主イエス・キリストを配達するのです。

わたしたちは、聖書のみ言葉を通して、洗礼者ヨハネの証しを聞いています。キリストが来られる、キリストが来られたという証言を聞いています。

教会も、あるときには、自分たちが何を配達しているのか、何だか分からなくなってしまうかもしれません。しかし、洗礼者ヨハネが証しした、主イエス・キリスト、この方がわたしたちの救主なのです。

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