2023年4月30日(日)復活節第4主日 宣教要旨

ヨハネによる福音書6章34節~40節

「主イエスは命のパン」

6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

イソップ物語に、「獅子の分け前」という題で知られている二つのお話があります。

一つ目です。ライオンとロバが狩りに出かけました。協力して獲物を取り、それを分けることになりました。

ライオンが獲物を三つに分けました。そして、その一つを取って、これはわしがもらう。わしは百獣の王だからな。そして二つ目を取って、これもわしがもらう。お前と協力して獲物をとったのだからわしの分け前だ。そして、三つ目を指差して、さて残りの一つだが、お前が逃げないならば、お前に不幸をもたらすであろう。お前の分は取るなと言って、一人占めしたというのです。

二つ目のお話です。同じ「獅子の分け前」という題のお話です。

ライオンとロバとキツネが狩りに出かけました。協力して獲物を取りました。

ライオンがロバに命じて、分けるようにと言うと、ロバはきちんと三等分しました。どうぞおあがりくださいと言うと、ライオンはロバにおそいかかり、ロバを食い殺してしまったというのです。

今度はライオンが、キツネに向かって、今度はお前がわけてみろと言うと、キツネは大半をライオンの分とし、自分の分はわずかしか取らないように分けました。

ライオンは、誰がこんな分け方を教えたのかと言うと、キツネは、ロバの災難ですと言ったというのです。

イソップ物語は人生訓です。この世に生きる知恵のお話です。

分け前、食料の分配は弱肉強食、強いものが一人占め、大半を持っていきます。

二つ目のたとえは、三等分し、自分も平等に獲物をほしいロバがライオンに食い殺されます。食い殺されてはもともこもないキツネのように、わずかしか取らず、大半をライオンに差し出すものもいます。

この世的な原理、処世訓です。食料も教育も、平等に分配されません。不平等です。この世の現実は、競争社会、実績主義が当たり前なのではないでしょうか。

今日の聖書の課題は、命のパンです。パン、食料は、わたしたちが生きるに必要な、欠くことのできない糧です。

今日の主題は、主イエスこそが命のパンであるということです。

この命は、神さまの命につながって生きる命、信じる者の命、すなわち、永遠の命、復活の命のことです。

ヨハネによる福音書6章22節から59節は、主イエスが命のパンという見出しのところです。

長いところですが、簡単に言うと、次のようになります。

神さまの前で、糧の分配は二つの仕方で分配されます。一つは、糧は、等しく配られました。もう一つは、糧は必要に応じて配られました。

そして、本当の糧、命の糧は、主イエスにあって配られました。主イエスこそがわたしたちの糧、命のパンであるというのです。

この世の糧の分配ではありません。神さまの前での糧の分配のことです。聖書は、二つの側面で、比較して教えます。神さまは等しく、また必要に応じて分けられるのです。

一つの事例は、マンナのお話です。旧約聖書の出エジプト記16章です。

イスラエルは、モーセを指導者に、約400年のエジプトでの寄留の生活に別れを告げました。しかし、その旅路は苦難の旅路でした。

内憂外患です。特に、人々は食べるものがない、飲み水がないと、指導者モーセとアロンに訴えたのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」

エジプトで死んだ方がましだった。奴隷の身ではあったが、肉を、パンを腹いっぱい食べることができた。わたしたちはこの荒れ野で飢え死にさせようとしているのかと。

この、民の神さまへのつぶやきを、モーセとアロンは主に取次ました。

すると、主なる神さまは、朝にはマンナ、夕にはうずらを降らせたのです。

マンナは一人1オメル、家族の分だけです。毎日必要な分だけ与えられました。余分に集めると腐ってしまいました。

毎日毎日、神さまはマンナとうずらを降らせました。6日目だけは2倍のマンナです。2日分のマンナを集めることができました。7日目は主の安息日だからです。

そして、つまり、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も、足りないということはなかったのです。

夕には肉を、朝にはマンナというパンをイスラエルの人々は与えられ、荒れ野を40年生きたのです。

荒れ野の40年は、わたしたちの人生です。神さまの前で、不平等だと、不平を言いながらも、しかし、神さまは必要な糧をたくさん与えてくださいます。すべて食べることができるのではなく、必要に応じて与えられるのです。

主イエスは、弟子たちに教えられました。エジプトを出たイスラエルの人々を、神さまはどういうふうに養われたかを思い出してみなさいというのです。

ヨハネによる福音書6章は、5000人に食べ物を与えるお話からはじまります。わずかなパンと魚を、主イエスが祈って分けると、5000人の人々が満腹し、さらに余りがでました。

この出来事の深い意味を、弟子たちは分かりませんでした。見える糧だけのことを考え、見えない糧、命のパンが配られるという、深い意味が分からなかったのです。

神さまの義という言葉があります。神さまの正義、公平という意味です。

神さまの義は、語源的にはいろいろな説明がありますが、一つは、神さまの正しさのことです。悪を罰し、善に報いられる神さまの正しさ、公義のことです。

もう一つの意味は、神さまは誰にも等しく分けられる、特に、パンを平等に分けられるという意味です。

人間の義は不平等です。しかし、神さまの義は正しく、すべての人の必要に応じて分けられるのです。誰にでも等しく、多く集めたものも余ることなく、少なく集めた者も足りないことはありません。すべての人に等しく分け与えられたのです。

これは、エジプトを出たイスラエルの経験、5000人の給食によるのです。

この世のパンとのたとえとの比較です。主イエスが三つ目のパン、命のパンだというのです。朽ちる食べ物のことではなく、朽ちない永遠の命に至る食べ物、父が天から与えてくださるまことのパン、神さまのパン、天から下ってきて世に命を与えるもの、わたしが、主イエスが天からのパン、神さまのパン、命のパンというのです。

このパンをいただく者は決して飢えることがなく、乾くことがありません。

あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べました。しかし、ほとんどの人々は荒れ野で死んでしまいました。それは、この世のパンのことだからです。

しかし、命のパン、このパンを食べる者は、永遠に生きることになる。終わりの日に復活させられるというのです。

この世のパンは必要です。しかし、それはたとえです。本当のパン、主イエスご自身を信じて、パンをいただく者は永遠に生きるのです。神さまの命につながって生きるのです。

聖書では、人は生かされるとは書かれません。生きると書いてあります。人は神さまの恵みに生きるのです。

キリストを通して、神さまの愛が示されました。その十字架に罪赦され、復活の命に生きるのです。霊の糧を日々いただいて、恵みに生きるのです。

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