2021年1月10日(日)降誕節第3主日 宣教要旨

マタイによる福音書3章13~17節

「主イエス、洗礼を受ける」

3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。

3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。

3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。

3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

洗礼者ヨハネという人は、たいへん優れた人物であったようです。それ以上に、人々は、ヨハネを預言者以上の方、すなわち、来るべきメシア、キリストの出現と思っていたようです。

洗礼の意味は、水に、古い自分が死に、引き上げられて、新しく生きる、生まれ変わるという意味でした。

 その洗礼を、ヨハネは、異邦人ではなく、同じユダヤ人に、悔改めの、罪の赦しの洗礼を授けていったのです。

 そして、ヨハネは、霊的な洗礼を授ける、キリストの到来を指し示します。

わたしは、悔改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

自分は、ヨハネは、後から来る方、すなわちキリストである主イエスに比べると、わたしより優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。

当時、客の足を洗うのは奴隷の仕事でした。外から来た客の、土埃まみれのはきものの紐をとき、汚れた足を洗って家に入ってもらいました。

 おそらく、ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受けるために、ぞくぞくと人々が集まっていたのでしょう。洗礼を受けるために、川に入るために、靴紐をといて、靴を脱いで入ったのでありましょう。靴を脱がす人がいたのかもしれません。

そういう光景から、ヨハネの口をついて、わたしは その履物を脱がず値打ちもないと言わせたのかもしれません。

 その方は、聖霊と火で、あなたがたに洗礼をお授けになると言いました。

聖霊と火の洗礼は、聖霊は風とも読めます。聖霊と火、風と火というのは、神さまのご臨在のシンボルでありました。聖霊と火は、神さまのまことの裁きと、まことの救いのしるしでありました。

麦を収穫するとき、脱穀をします。脱穀は、風があったほうがいいのです。箕に入れた麦を、放り投げるようにして風を入れて、箕と籾殻を振るい分けるのです。

米でも何でも、昔は、手に箕を持って、麦の実と殻を振るい分けました。そして、殻は焼かれたのです。

そのとき、主イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためであると書いてあります。

内容的には、ヨハネの洗礼は、罪の悔改めの洗礼でした。悔い改めよ、天の国は近づいたと。すなわち、終わりが近づいたというのです。ぞくぞくと洗礼を受ける人々の列ができていました。その罪の悔改めの洗礼を受ける人並みの中に、主イエスがおられたのです。

 ですから、主イエスの洗礼、受洗は、洗礼をヨハネから受けたということが不思議なわけです。

主イエスに、悔改めるべき罪があったのでしょうか。わたしたちと同じように罪人なのでしょうか。罪の悔改めの洗礼が必要であったのでしょうか。

ペトロの手紙一の2章に、この方は罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった、とあります。その他、主イエスが罪のない方であったとの証言は、聖書にたくさんでてきます。

しかし、主イエスの洗礼には意味がありました。不可解な洗礼の中に、主イエスのお姿があったのです。罪のないお方であるにもかかわらず、わたしたち罪人と同じようにへりくだり、低くなり、わたしたちと同じ立場に降ってくださったからなのです。

主イエスのことを、低きにくだる神と言った人がいます。

その誕生の姿から低くなれた主イエスのきわみは、十字架の死です。

フィリピの信徒への手紙2章、そのあとです。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 主の低さは、十字架の死においてきわみ、頂点に達するのです。

洗礼を受けた主イエスにおきたことです。主イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられました。そのとき、天がイエスに向かって開いたのです。イエスは、神の霊が鳩のように、御自分の上に降って来るのを御覧になります。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が天から聞こえたというのです。

天が開いたということは、神さまが行動を起こしたということです。神の霊が、聖霊が注がれたのです。

この光景は、昔、預言者が預言していたことでもありました。

イザヤ書11章、エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り畏れ敬う霊、彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

黒雲に覆われた心が、なにかの力によって引き裂かれ、光が差し込んだかのような光景を思い浮かべます。

イザヤ書63章の言葉です。「どうか天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」

口語訳では、「黒雲に閉ざされた人々に、天の青空が見えない日々。どうか天を裂いて降ってください。神の御業を見せてください。」という願いの言葉の実現だったのです。

山々がゆれ動くかのような御業を見せてくださいとの願いの実現だったのです。

 また、聖書の最初の言葉、創世記1章、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」

世界の創りのとき、まだ地は混沌としてかたちがなく、闇が深淵のおもてにあるときに、神の霊が水の上を動いていたとあります。闇のなかで、神さまが働きはじめていたというのです。

そして、そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が天から聞こえたのです。

この言葉は、聖書では、王の即位に神さまが告げる言葉でした。

わたしの心に敵う者、それにこれはわたしの愛する子という言葉が加わった言葉です。

すなわち、神さまがもっとも愛しておられる子、独り子主イエスに、王として、特別な務めに遣わす言葉なのです。

主イエスは、洗礼者ヨハネから、罪のない方であるにもかかわらず洗礼を受け、わたしたちと同じように人となり、低くなられたというしるしを受けたのです。

それは十字架のご栄光でした。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を、代々の教会は、この御声を聞き取る、背景として、3か所の旧約聖書の言葉をあげて聞き取ってきました。

 創世記22章、モリヤの山で、信仰の父といわれた アブラハムが、その子イサクを、燔祭のささげものとして、その命をささげようとする話です。

詩編2編、王の詩編です。「すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ、主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。」

詩編2編は、後には、メシア、すなわち救主を歌う歌として理解されていきます。神さまが立てられる王 メシア、主イエスが重なるのです。

イザヤ書42章、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者をわたしが選び、喜び迎える者を、彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」

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