2021年1月24日(日)降誕節第5主日 宣教要旨

マタイによる福音書4章18~22節

「四人の漁師を弟子にする」

4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。

4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。4:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

「四人の漁師を弟子にする」という見出し、ガリラヤ湖の漁師四人が、わたしについて来なさいという、主イエスの召しに従った物語です。

主イエスの呼びかけ、わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしようは、不思議な言い方です。普通の言い方ではありません。聞きようによっては、ぶっそうな言い方に聞こえます。

主イエスが言われた意味は、水の中に隠れている魚を網で引き上げるように、罪人であるわたしたちを、新しく生かすという意味でした。そういう意味で、あなたがたを漁師にしようと言われたのです。

実は、人間をとる漁師という言葉は、旧約聖書の預言者たちが使った言葉でした。

預言者たちの使い方は、主イエスが言われた意味とは180度違った意味でした。

たとえば、エレミヤ書16章16節、「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。」

漁師が人を釣り上げるのは、それは、人の悪と罪を水に隠しておかない、釣り上げて、明らかにして、倍にしてむくいるという意味でした。

人間をとる漁師という、預言者の使い方は、裁きの漁師という言い方でした。

主イエスの、人間をとる漁師にしようという呼びかけは、旧約の預言者とは正反対の意味でした。釣り上げた人を裁くのではなく、探し出して、失われた人を見つけて、網にかけて、引き上げて生かすという意味だったのです。

弟子たちは、人間をとる漁師にしようという、新しい、新鮮な響きを聞いたに違いありません。

ある聖書の研究者は、21節、彼らをお呼びになったという言葉に、特別に注目するようにと言います。

聖書の研究者が、この呼ぶという言葉に注目しなさいというのは、教会を連想させる言葉です。人間をとる漁師にしようと、彼らを、主イエスは呼んだということです。つまり、教会のことが、ここに記憶されているというのです。

教会という言葉、エクレシア、呼ばれた者たちという意味、マタイによる福音書だけ2回でてきます。

他の福音書には教会という言葉はでてきません。教会の記憶が、教会の経験がすり込まれているにちがいないというのです。

 ペトロが信仰を告白した、その信仰の告白の上に、主イエスは教会を建てると言われました。あなたはメシア、キリストと告白するところに、人に、教会が建っていくというのです。

主イエスのご生涯を記したマタイによる福音書の、その最初のところ、四人の漁師を弟子にする物語に、すでに、教会ということを、彼らをお呼びになったと、最初から考えていたということです。

ですから、私たちの教会も、わたしたちも、主イエスをキリストと告白する教会であり、呼び出された者たちの集まりなのです。

ガリラヤの湖の岸辺で、主イエスからついて来なさい、人間をとる漁師にしようと呼びかけられた、そして従っていった、ここに私たちの教会が始まったという物語なのです。

今日の個所、人間をとる漁師という言葉が新鮮な響きであり、呼ぶというのが、教会を連想させる言葉だという話をしたのですが、漁師たちが弟子になる仕方も、実は新鮮であり、普通ではありませんでした。

普通、弟子になるのは、先生の弟子になることです。弟子にしてほしいと入門を願い、拝みたのんで弟子入りするのが普通でした。

ユダヤでも、ラビ(先生)のもとには、たくさんの弟子がいました。ラビが、おまえはわたしの弟子になりなさいと、弟子たちを集めたのではありません。率先して弟子を見つけ、弟子にすることは一切なかったのです。

弟子になりたい者が、弟子にしてくださいと頼んで。皆、弟子になったのです。

そういうわけで、主イエスの弟子になる仕方は、まったく当時の習慣とは違ったものだったのです。主イエスが呼んだのです。漁師たちが、網を打っていたり、網の手入れをしているのをご覧になって、主イエスの方から、わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしようと、弟子にしたのです。また、呼んだのです。わたしたちを、主イエスが呼び、教会を、主イエスが呼び集めたのです。

 自分たちは、仕事も家族も捨てて、主イエスに従えるのかと思います。できないと思うにちがいありません。こんなふうにして、主イエスの弟子にはなれないと思います。

ハードルが高いのです。自分にはできないと思うのは当然です。

主イエスは、そういう、乗り越えられない高いハードルを作り、弟子を呼んだのではありません。

わたしたちの、網を打ったり、網を手入れしたりする生活の只中に来てくださって、ついて来なさいと声をかけているのではないでしょうか。

ペトロたちは、実際に、すべてを捨てて、仕事も家族も捨てて従ったのではありません。主イエスの弟子たちは、すぐに、捨てて従ったと書いてあるのですが、実際は違いました。

ペトロは、この時、結婚していたことがわかります。カファルナウムに家があり、妻があり、姑がいて、ペトロは一家を支え、その面倒をみていたのです。

 主イエスの弟子になったので、急激に生活に変化があったのではなかったのです。仕事も、まだ漁師を続けていました。家族との生活も変わらなかったのです。

ただ変わったのは、弟子になって、主イエスを自分の家に迎えたということです。そして、主イエスが、カファルナウムのペトロの家をホームにして活動したのです。

マタイ8章、「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。」

そこに、悪霊に取りつかれた人が連れて来られ、その家でもてなしがあったり、食事をしたり、悪霊を追い出したり、病人をいやしたりされたのです。

主イエスの弟子になることは、自分の仕事を捨て、また家族とも分かれて暮らすことではありません。主イエスがわたしたちを呼んでくれました。その主イエスを、自分たちの家にお招きする、そういうペトロの出発、主イエスをお迎えするという旅立ちがここに記されているのです。

主イエスは、ペトロに悔い改めを迫ったり、信仰を教えたりはしませんでした。この人は、信仰があるかないかを問題にして、主イエスは人を弟子にするのでもなかったのです。

主イエスは、ガリラヤの漁師たちをとらえて、四人の漁師を弟子にしました。彼らが弟子になったのではなく、主イエスが弟子にしたのです。

わたしたちは、今日、教会に集められ、主イエスの呼びかけを聞いています。わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。その呼びかけに答えて、わたしたちも、すぐに網を捨てて、船と父親とを残して、主イエスに従うのです。

ここから、遣わされるのです。

遣わされる場所は、特別な、何か別な場所ではありません。特別な使命が与えられているわけでもありません。

生活そのものに、生活の中に、主イエスをお迎えするような生活に、遣わされていくのではないでしょうか。

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