2023年5月7日(日)復活節第5主日 宣教要旨

ヨハネによる福音書21章15節~17節

「わたしの羊を飼いなさい」

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。

ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

ご復活の主イエスが、ガリラヤで弟子たちに現れました。

朝の食事の後、ペトロに、三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなったと書いてあります。

ペトロには、悲しい思い出がありました。それは、主イエスが捕らえられた夜のことです。主イエスは、たとえ皆がつまずいてもわたしはつまずきませんというペトロに言いました。「はっきり言っておくが、あなたは今夜、鶏が二度なく前に三度わたしのことを知らないというだろう。」

すると、またペトロが、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません。」と言い切ったのです。

しかし、それはどうなったのでしょうか。主イエスは 捕らえられ、最高法院で夜通しの裁判を受けます。その裁判の行われている大祭司の中庭にペトロは居合わせます。

女中の一人が、火にあたっているペトロに、あなたも あのナザレのイエスと一緒にいたと言うと、ペトロは打ち消して、あなたが何のことを言っているのかわたしにはわからないし、検討もつかないと言います。

すると、鶏が鳴きました。

また、その女中が、周りの人々に、この人はあの人たちの仲間ですと言い出すと、ペトロは再び打ち消します。

そして、今度は、居合わせた人々が、確かにお前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だからと言うと、すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、あなたがたの言っているそんな人は知らないと誓い始めたのです。

鶏が再び鳴きました。

ペトロは、主イエスが、先程、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろうと言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出したのです。

ご復活の主イエスが、ティベリアス湖畔に、すなわちガリラヤ湖畔にご自身を現され、特にペトロに、ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛するかと言われました。

ペトロが、はい主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知ですと言うと、主イエスは、わたしの小羊を飼いなさいと言いました。

二度目に、ヨハネの子シモン、わたしを愛しているかと言うと、同じように、はい主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知ですとペトロは言いました。

主イエスは、わたしの羊の世話をしなさいと言いました。

三度目にも、ヨハネの子シモン、わたしを愛しているかと言うので、ペトロは、自分は三度、主イエスのことを知らないと言ってしまった、自分のみじめさ、情けなさ、悲しさを思い出したのです。

その主イエスが、自分に三度、愛しているか問うたからです。

主イエスは三度も、ペトロに愛しているかと問いかけました。ペトロを、かけがえのない人間として、主イエスは、愛しているかと呼び出したのです。生きる基本に連れ出そうとしたのです。技術でなく、愛を中心に生きる人間としようとしたのです。

ガリラヤの海辺で、人間を捕る漁師にしようと召されたペトロを、主イエスは再び召したのです。ペトロは、愛しているのかと、悲しいほどに、またつかまえられたのです。

キリスト教というのは、一言でいうと、活き活きと生きるということにあると思います。人は、毎日を活き活きと、元気で生きたいからです

主イエスは、ペトロに、わたしの小羊を飼いなさい。わたしの羊の世話をしなさい。三度目に、わたしの羊を飼いなさいと言われました。

教会を愛しなさいと言って、使命を、義務を与えたのです。

ある歌です。小川の流れにそって道がある。この道を歩むこと、それがわたしの義務。そこには神さまの恵みが伴っている。

わたしたちには務めが、義務があるのです。

義務というのは、英語ではデューティーといいます。これはデュオという言葉から生まれました。デュオというのは「二つ」という意味です。二人で歌うことをデュエットと言います。これもデュオから生じた言葉です。

義務も同じです。二人で共に生きることを言いあらわしています。

わたしたちには義務があります。「小川の流れの小道を歩むこと」、水の流れがある。それは命の水、その流れにそって歩んでいく道がある。その道を歩む、それがわたしの義務。生きる姿なのです。

主イエスが伴ってなってくださる義務、デュオなのです。

ご復活の主イエスが現れ、臨んでくださいます。

ペトロに、わたしを愛しているかと、三度も念を押しました。

 そうです。では羊を飼いなさいと言われる義務が、恵みがあります。主イエスが伴ってくださる義務の恵みがあります。

わたしの羊を飼いなさいとの主イエスのお言葉が与えられました。

教会は、十字架と復活の福音を宣べ伝えなければなりません。父なる神さまと子なる神主イエス・キリストの遣わされた聖霊が、教会に臨んでいるからです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加