マタイによる福音書12章22~32節
「ベルゼブル論争」
12:22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
12:23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
12:24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
12:25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
12:26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
12:27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
12:29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
ウイリアム・ゴールディングという作家に、「ハエの王」という作品があります。
ハエの王とは、聖書のベルゼブル、悪霊の頭、すなわちサタンの別名です。
ベルゼブルの語源には、2つ説があります。ひとつは住まいの王、住まいの主、もうひとつは、ハエの王、ハエの主です。
イスラエルの人々は、住まいの主、住まいの主人という異教の神さまを読みかえて、ベルゼブル、悪霊の頭、サタンのことをさすようになったといわれます。
ベルゼブル、ハエの王という小説ですが、著者自身、「社会の欠陥が生まれた原因を、人間の本性の欠陥に求めようとする試み」と言っています。
あらすじですが、無人島に不時着した10代前半の少年たちが、やむをえず無人島で暮らし始めます。
少年たちだけの、そこは果物の豊富な楽園でした。
最初は平穏でした。しかし、次第にグループに対立が生じ、悪魔的な力、悪魔的なものが島にひそんでいるという気配におびえ始めます。
とうとう、混乱、対立から、ひとりの少年の犠牲者がでるのです。
人間というのは生まれつき善いものであるというのが、当時の教育観でした。ゴールディングのハエの王は、逆に、人間のもっている悪魔的な部分、悪魔的な諸力を描き出したのです。
聖書は、人間が罪人であることを強調します。
創世記の2章から4章に、すべての人に罪がはいりこんだ次第が記されます。
食べてはいけないと言われていた、園の中央にあった善悪を知る木の実を、サタンの化身である蛇が、アダムとエバに、食べてごらん、食べるとおいしいよと、巧妙に誘惑します。
エバが食べ、夫アダムも食べました。
罪と、その罰としての死が人類に入り込んだのです。
そして、ふたりの子、兄カインの弟アベル殺しが起きます。
楽園を追われた人間が、楽園をどういうふうにしてとりもどすかが、聖書の底辺に流れる大きなテーマになるわけです。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙7章で、わたしは自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする。わたしの中に住んでいる罪、わたしは望む善は行なわず、望まない悪を行なっていると、罪のもとにある現実が、現在進行形であることを記しました。
主イエスは、福音書で、悪霊を追い出していきます。
マタイ福音書では、カファルナウムの会堂で、汚れた霊にとりつかれた人を癒したことに始まって、墓場に住んでいた凶暴な男についた悪霊を、2000匹の豚に乗り移されたり、ツロでは、汚れた霊にとりつかれていた娘から悪霊を追い出し、また、悪霊にとりつかれた息子をいやして回りました。
今日の、ここでは、悪霊にとりつかれて、目が見えず、口のきけない人を、主イエスは癒すのです。
人々は驚きました。この人はダビデの子ではないだろうか。自分たちの力や努力では、どうにもしばられているかのように、身動きができない人たち、悪霊にとりつかれたかのように見られた人たちが、ダビデの子、救主だと、悪霊の支配からわたしたちをときはなすメシヤ、キリストではと驚いたのです。
ところが、ファリサイ派の人たちは、これらの悪霊の追い出しを、悪霊の頭、ベルゼブルによるにちがいないと言いだしたのです。
悪霊たちは、その親分である悪魔の力で、言うことをきいているのだと、主イエスを悪魔よばわりしたのです。
主イエスは反論します。これは、悪霊の頭の力によるのではない。神の霊によるのであって、神の国の到来のしるしであると言うのです。
悪霊の頭ベルゼブルによるのだという言いがかりに、主イエスは、それでは内輪もめになると言います。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめ、どうしてその国が成り立つのかと、あなたの仲間は何の力で追い出すのかと言うのです。
悪霊の追い出しは、ファリサイ派の人々のなかでも行なわれていました。逆に自分たちを裁くことになるのではないかというのです。
そうではなくて、神の霊で悪霊を追い出しているのなら、実に、神の国はあなたたちのところに来ているというのです。
人の力ではどうしてもおいだせない悪霊、悪魔的なものに、人間という住まいが住まわれています。
主イエスは、神の霊が悪霊をしばり、家財道具をうばうと、乱暴な表現ですが、ファリサイ派の人々のいいがかりに強い言葉で反論するのです。
主イエスが、わたしたちの主人です。主イエスは、わたしたちの住まいを開放してくださるのみならず、主イエスが、わたしたちの家のご主人として住まわれているのです。
主イエスは、悪霊の支配からわたしたちをときはなつために、十字架に死んでくださって、わたしたちを解放してくださいました。自ら、家の主人としてわたしたちのうちに住まうようになられたのです。
インドの話です。宗教を信じる人には、二とおりの人がいます。
ロバが荷を背につんで川を渡ります。川は宗教のことです。
ある人が、宗教を信じることは、ロバが背に綿をつんで渡るのに似ていると言いました。
川を渡り始めると、綿に水がしみこんで、重くてしかたがありません。最初は軽いのですが、段々重みがまして、これでは渡れないのです。
一方、別の仕方で信じる人がいます。ロバが塩を荷物として川を渡る人は、最初は重い荷物と感じて川を進むのですが、塩がとけて、段々荷が軽くなるのです。
信じて生きることは、塩をとかして、すっかりとけて川を渡る人生でありましょう。
十字架に、わたしたちの罪のために、身代わりに死なれた主イエスを、ロバにのって、エルサレムに入られた主イエスを、人々はユダヤの王さまが来られたと歓迎しました。
主イエスが、十字架に死なれることは、神さまのお考えでした。
主の受難節、主がわたしたちのところに来られ、わたしたちの住まいとなられ、神の国はあなたがたのところにきていると言われました。
日々、わたしたちの荷は軽くされています。