2022年5月1日(日)復活節第3主日 宣教要旨

マルコによる福音書2章18~22節

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉は、さまざまな世の中の変化にたとえられますが、聖書の、主イエスの言葉です。

わたしたちは、福音によって、神の国の新しい約束に、婚礼の客の喜びに招かれているのです。

洗礼者ヨハネの弟子たちや、ユダヤ教の弟子たちも、断食をしていました。しかし、主イエスの弟子たちは断食をしていなかったのです。

新共同訳の見出しに、断食についての問答とあるように、この話は、断食をめぐる問答なのです。

断食は、食べることをさしひかえることです。空腹を味わうことです。

食べるために人は生きています。その食べることをひかえるのですから、食べない悲しみ、苦しみ、辛さが生まれます。そして断食は、人間は、食べないということで、神さまとつながっている生き物としての尊厳を、宗教性をもっていたのです。

ある人がこんなことを言っています。「わたしたちは食べるために一生懸命働いている。生きることは食べることである。そしてそこに悲しみも潜んでいる。食べるための争い戦争も起こる。考えてみると食べることの悲しみというのは、人生や世界の悲しみに深く結ばれている。だから悲しみとして人生や世界を受け止めることのできる人は断食をした。食べる物が喉を通らないような悲しみを憶え、懺悔し、悔い改め、克服しようとする祈りとして断食をした。天の都にいたる巡礼の旅路がここにあると心得た。

このように、断食は、諸宗教に位置づけられてきたわけです。

ヨハネの弟子たちも、ファリサイ派の人々も断食を守っていました。規則的に守っていました。旧約聖書にしるされている贖罪日とか断食日という日だけでなく、週に2日、断食をするという慣習が当時ありました。

日常を、宗教性の中に人は生きていたのです。ここに信仰者の歩むべき道筋があると心得られていました。

言い換えると、神さまをあがめ、神さまの救いを待つ者の姿というのは、断食の中に一つはっきりと読みとることができるのです。

マルコ福音書2章には4つのエピソードが記されていますが、いずれも主イエスや弟子たちの振舞いが人々を驚かせ、戸惑いを与えており、悪口や非難や問を引き出しでいます。

中風の人をお癒しになり、「あなたの罪はゆるされる」と宣言されたとき、主イエスは「神を汚すことだ」という非難を受けました。

また、徴税人や罪人とともに食事をされたときには「どうして彼は徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか」とやゆされ、今日読んだ箇所では、弟子たちが断食をしないというので、なぜかと言って質問を受けています。

そして、このすぐ後の物語では、弟子たちが安息日の律法を守っていないと言うので、同じように、「なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と非難されています。

ところが、主イエスの弟子たちは断食をしませんでした。それどころか、食べたり飲んだり喜び祝っているというのです。どうして断食をしないのですかと聞いてきたのです。

主イエスのお答えを先取ると、わたしたちは断食のもつ宗教性、世界の悲しみや辛さや苦しみを受け止める 断食の宗教性を否定するのではありません。しかしそれ以上の、わたしたちに備えられている喜びがあると受け止めたのです。

主イエスのお言葉です。花婿が一緒にいるのに婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし花婿が奪いとられる時が来る。その時には彼らは断食することになる。

花婿は主イエスご自身のことです。主イエスと一緒おられるところ、婚礼の会場、祝いの宴の場所では断食などさせるわけにはいきません。

それゆえに、主イエスは、弟子たちに断食しなさいとは命令なさらなかったのです。祝え、婚礼のように喜び祝えと言われたのでした。

婚礼というのは、当時のパレスチナの田舎では、最上の喜び、祝宴だったそうです。何がなんでもその喜びにあずかる。婚礼がある時には、その日が律法を教え、学ぶ日であったとしても、断食の日であっても、それを中止して、祝いと喜びのために集ったのだそうです。その婚礼の喜びというのは、神さまの御国を示すしるしでもありました。

「あなたがたは「婚礼の客」です。花婿が一緒にいるのですから、客は断食などできない。お客に断食を勧めるような花婿もいない。喜びの食事にわたしはあなたがたを招いたのだ」と主イエスは言われました。

主イエスは悲しみを知らないはずがありません。いちばん良く知っていてくださったはずであります。「しかし花婿が奪い取られる時が来る。その日には彼らは断食をすることになる」とあるように、花婿は悲しみを知っており、十字架としてそれをお知りになるのです。

主イエスが喜びの食事だといわれるのは、すでに主イエスが悲しみを喜びに変えてくださっているからです。悲しみの道はわたしがもうすでに歩み終えている。わたしが歩み通した。わたしは悲しみの道を踏みしめ、それを喜びの道に変えてきた。だから一緒に喜んでおくれと主イエスは言ってくださるのであります。

問答の後半です。

古い布に新しい布きれをぬいつけたりすると、洗ったりするとやぶれてしまうことがあります。新しい発酵するぶどう酒を古い革袋に入れたりすると、革袋がはりさけることがありました。新しいぶどう酒は新しい革袋にとは、新しいものは 古いものにあわないというたとえです。

ユダヤ教とキリスト教、主イエスの教えと古い教えの違いです。新しい主イエスの教えは、キリスト教は新しい革袋に入れなければなりません。わたしたちは新しい人間として、神の国を先取る教会に盛られているということなのです。

最後の節です。また古いぶどう酒を飲めばだれも新しいものを欲しがらない。古いものの方がよいと言うのである。

ファリサイ派の人は、古いもの、断食がいいだろうと言うだろう。主イエスがファリサイ派の人のことを揶揄した言葉です。

ユダヤ教とキリスト教、旧約と新約の宗教があります。古い約束と、新しい約束があります。

新しい、信仰によって、恵みによって、キリストによって価なくして救われる約束があります。

新しい革袋というキリスト教が始まりました。その礼拝に、新しい器に、婚礼の客としてわたしたちは今日、招かれているのです。

福音の新しさです。罪人が赦され、いやされ、助けられたように、弟子たちは主イエスに招かれていったのです。

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