2021年3月28日(日)復活前第1主日・受難節第6主日 棕梠の主日 宣教要旨

マタイによる福音書27章32~44節

「十字架につけられる」

27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。

27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、27:36 そこに座って見張りをしていた。

27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

27:38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。

27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。

27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

ある先生が、人間の罪には三種類あると言いました。放漫と虚偽と怠惰です。

放漫はおごり高ぶること、虚偽は偽り、嘘、怠惰は怠けることです。

主イエスの十字架の道への付箋は、ガリラヤでの宣教、安息日の律法規定違反にありました。安息日にしてはならないことをしていると、罪人や収税人と付き合っているなど、いろいろな反感を生んだのです。

受難週です。

主イエスが、十字架におつきになるに至るいきさつには、人間の罪がありました。人間の罪深さの故、人間の罪のために、主イエスは十字架におかかりになったと、福音書はその後をたどることができるのです。

すでに主イエスに殺意をいだいていた律法学者や祭司長たち、ユダヤ教の指導者たちには、放漫の罪がありました。

自分たちが権威者であり、上位意識があり、主イエスの言動に赦せないところがあったのです。

主イエスに、神さまの本質を認めたくないというおごり高ぶりが、主イエスを十字架につけることになったのではないでしょうか。

虚偽、偽りの罪もありました。

マタイによる福音書の、十字架刑の箇所です。大祭司カイアファは、議長として、ユダヤの最高法院の裁判で偽りを、偽りの裁判を行います。でっちあげです。主イエスを死罪にするために、主イエスに不利な偽証を求めたのです。

続いて、ローマ総督ピラトの裁判も偽りの裁判でした。決して公正な裁判ではありません。

ピラトの妻は、主イエスの十字架刑にかかわりたくない、感知しないと言います。

また、主イエスの方を十字架につけろと、民衆はさわぎたてます。

わたしたちには関係がないと、責任を回避する、偽りの罪を犯したのでした。

怠惰の罪がありました。弟子たちは怠けていました。

ゲツセマネの園で、主イエスが、十字架の杯を、できるならば取り去ってください、いや、御心ならば引き受けますと祈っていた時に、ペトロと、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、疲れて眠り果てていたのです。

また、ペトロはじめ弟子たちは、主イエスの逮捕、裁判の時、そして十字架から逃げてしまうのです。

主イエスの十字架の死は、わたしたちの罪のための死、わたしたちの罪を背負った死でした。

十字架をとりまく人間模様は、人間の罪を明らかにします。放漫、虚位、怠惰の罪の結果の十字架が立ったのでした。

意識せずとも、逃れられない罪もありました。12弟子のひとり、イスカリオテのユダに悪魔が入ったのです。

ユダは、銀貨30枚を欲しいがために、主イエスを売りました。ユダの裏切りが、主イエスの逮捕のきっかけになります。

十字架への道、逮捕、裁判、十字架刑を、改めて読んでみると、わたしたちもここに出て来る罪人と同じであることがわかります。

わたしたちも、殺意をいだき、主イエスを殺害しようとした律法学者、祭司長たちと同じです。

主イエスを、総督ピラトに引き渡したのです。

十字架につけろとあおりたてた群衆もわたしたちです。

偽証人もわたしたちです。

自分には責任がない、かかわりたくないと言ったピラトも、わたしたちです。

十字架を前に逃げ去った弟子たちも、自分たちに火の粉がふりかかるのをおそれたのも、わたしたちです。

放漫と虚偽と怠惰の罪人のまっただ中に、ゴルゴダ(されこうべという意味の場所)の丘に、主イエスは、右に左にふたりの犯罪人と一緒に、十字架につけられたのです。

律法学者や祭司長たちは、最高法院に、大祭司が議長の裁判に訴えます。

ユダヤの裁判は、死罪の判決は可能だったのですが、わざわざ、ローマの総督ピラトの裁判にまでもっていき、十字架刑という、ローマ式の奴隷のための裁判にかけるのです。

主イエスの罪状は、神冒涜でした。神殿をこわして三日でたて直すと言ったと、ふたりの偽証人の証言をとりあげたのです。

 大祭司カイアファは、おまえは神の子、メシアかと問います。主イエスを、なんとか侮辱し、恥をかかせたかったのであり、さげすみたかったのでありましょう。

罪人のために、罪人の故に、主イエスは、ゴルゴダの丘で、十字架に、あたたかい血が流れたのです。

わたしたちのための身代わりの死でした。

わたしたちは、人のためには死ねません。まして、自分を十字架につけた人々のために、罪人のためには死ねません。しかし、主イエスはわたしたちのために十字架についてくださいました。そこにわたしたちの救いといやしがあるのです。

 時は過越の祭りの最中です。過越の犠牲の小羊として、罪のない無実の方の血が流されたのです。

十字架の滅びが、わたしたちの救いとなりました。

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