マタイによる福音書5章13~16節
「地の塩、世の光」
5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
塩が、塩味を保ったままならば良いのですが、塩に塩気がなくなります。簡単に言うと、湿気が塩に入って、どろどろになって、塩でなくなるのです。
塩に、塩気がなくなってしまったら、無用の長物になり、役に立たず、捨てられ、人に踏まれてしまいます。
そういう、役にたたない塩でなく、あなたがたは、いつまでも、塩味のある塩でありなさいという、主イエスの教えです。
塩は、わたしたちの生活に欠くことのできないものです。生活に、体を維持するために、塩が必要です。
塩は大事なものであり、人間の生命線でもあります。
主イエスが言われた塩味のある塩は、当時、まだ少数者であった、キリストの弟子たちに言われたものでした。
わたしたちも、また弟子たちも、特別にすぐれた人間ではありません。ガリラヤの、無学な漁師たちでした。
あなたがたは地の塩であることの意味は、生き方のことであると思います。御国を求めて生きることの徹底だと思うのです。
主イエスの教えは、単に役に立つ人間になるようにというのではありません。存在自体が、あなたがたは地の塩なのである、その塩味をなくさないようにということだと思います。
塩にはいろいろな役割、働きがあります。
1つは、味付けです。塩味は、食べ物をおいしくします。
2つ目は、腐らないようにすることです。腐敗防止です。
3つ目は、殺菌です。塩で悪いことを清めます。
塩は、見えないというところに、塩の特色があります。ものの中に溶けてしまっています。
塩が主役なのではないのですが、見えない塩気、塩味が大事になります。塩がひきたてるものが、そのものを生かすわけです。
また、あなたがたは世の光であると主イエスは言われました。
光が、大事なものであることは言うまでもありません。
光は、わたしたちを温め、雪を溶かします。
光は、わたしたちの心を照らします。
主イエスは、燭台の光をもちだしました。光は部屋を照らします。
光は、蜀台の上におかれると、隠れることができません。
ここでは、あなたがたは世の光そのものと言われました。光は、闇夜に光る主役です。
燭台の光のように、あなたがたの光を、人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためであるというのです。
光という存在ではなく、光り輝くという行為を言っていると思います。
このように、主イエスは、2種類の言い方をしました。地の塩、世の光と、どちらにもなれるというのではなく、それぞれに価値があるというのです。
塩の匿名性と、光の主人公性と言ってもよいでしょう。
主イエスは、わたしたちに、直接、お弟子たちに、主イエスを信じる人たちに、主イエスのところに集まってきた人たちに、あなたがたは地の塩である、世の光であると言われました。
主イエスを信じる人で、あの人は地の塩のような人、あのひとは世の光のような人と、思い浮かべることのできる人がいたのではないでしょうか。
主イエスの、塩と光の話は、キリストの十字架とご復活の生涯を思い浮かべることができます。
塩は、裁きと関係します。光は、復活の希望の光です。
主イエスの山上の説教の御言葉は、主イエスが教えてくださった、主の祈りに裏付けられていると思います。
地の塩、世の光とは、自分の努力でできたり、なれるものではありません。地の塩、世の光になろうという考えが間違っています。
主イエスは、十字架におかかりになってくださいました。わたしたちのため、罪人のための十字架でした。
主イエスのご生涯は、わたしたちへの愛のご生涯です。
塩のようになれない人間、光でない人間、闇の人間のためのご生涯でした。
人間は、後戻りするかのように、自分勝手に生きているのです。自分が中心の素材なのです。
そういう罪人のために、主イエスは、十字架に死んでくださいました。わたしたちの罪を、失敗を引き受けてくださったのです。
あなたがたは地の塩である、世の光であるという宣言、肯定です。そうならなければならないではなく、主イエスの肯定から、わたしたちの1週間が始まるのではないでしょうか。
あなたがたこそ、地の塩、世の光、宝の民と言っておられるのだと思います。
わたしたちが光であって、わたしたちがほめられたり、わたしたちが注目されるためではなく、人がわたしたちを見て、天の父をあがめるようになるためと書いてあります。
すべての良きものは天の父なる神さまが与えていてくださいます。あなたがたは地の塩である、世の光であると、あなたがたはと主イエスが言うとき、わたしたちは自分のことを考えてしまいます。地の塩、世の光に、自分はふさわしいだろうかと考えてしまいます。自分のことばかりに、あてはめて考えてしまいます。
忘れてならないことは、天の父なる神さまのことです。すべての良きものを神さまが与えていてくださるからです。
塩の働きも、光の輝きも、わたしたちは、天の父なる神さまの光を受けて、それを反射しているにすぎないのです。
それで、わたしたちは父なる神さまを指し示し、人々は神さまを崇めることとなるのです。
ある人の言葉です。
イエスよ、あなたは他の人々とは違っています。もっと強くもあり、もっと弱くもあります。もっと高貴でもあり、もっと卑賤でもあります。あなたは神さまの尊厳を告げ知らせると同時に人々のうちの蔑まれている者たちとつれだって歩みます。あなたは神さまの力をもたらしながら弱い者たちと共に弱いのです。あなたは自由を生み出しながら束縛されている者たちに代わって自分を束縛させます。
あなたは暴力を必要とはせず、犠牲を避けようとはしません。どうかわたしたちをあなたと共に行かせてください。あなたのお伴をさせてください。どうかわたしたちにあなたの慈愛からの光をお与え下さい。わたしたちが人間になるために。どうかわたしたちをあなたに等しいものにしてください。