マタイによる福音書3章1~6節
「天の国は近づいた」
3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
3:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、3:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
荒れ野こそ、神の民が生み出され、信仰が生み出される場所、荒れ野こそ、神さまを信じるしかすべがない場所でした。すべてが渇き、不毛の地であったのです。
人生の荒れ野、荒れ野の人生と言われます。そういう荒れ野でこそ、神さま、助けてくださいという、信仰が生み出されるのではないでしょういか。
その荒れ野で、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、悔改めよ、天の国は近づいたと言ったのが、今日の聖書の個所です。
これは、預言者イザヤによってこう言われている人である。荒れ野の声は、洗礼者ヨハネのことです。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
イザヤが預言したこの聖書の引用は、イザヤ書40章3節です。
呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
このイザヤという預言者は、紀元前8世紀の預言者イザヤとは別の預言者です。
イザヤ書は、39章まではイザヤの預言、40章からは違うイザヤ、第2イザヤと言われる人の預言です。
紀元前6世紀、南ユダ王国は、バビロニアに攻め落とされ、バビロン捕囚という時代に入ります。
イスラエルの民は、バビロンで、絶望の荒れ野というべき、最も悲劇的な時代を経験するのです。
引用は、その第2イザヤという預言者の言葉です。
バビロン捕囚は、南ユダ王国、特に都エルサレムがバビロニア帝国に滅ぼされ、町が焼き払われ、王族や主だった指導者たちを中心に、1500キロ離れたバビロニア帝国の都バビロン連行されたのです。
捕囚時代は、奴隷生活です。
捕囚地のバビロンは、ここも民にとっては荒れ野、イスラエルの故郷、都エルサレムも焼き払われ荒れ地、バビロンと1500キロ離れたエルサレムの間は、また、荒れ野がへだてていたのです。
そういうところに声が聞こえてきました。それは神さまの声でありました。
主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。叫ぶ者の声がする。
荒れ野の叫び声、洗礼者ヨハネはどういう人であったでしょうか。ひとことで言えば、人々に洗礼をさずけまわった人でした。
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていました。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたのです。
洗礼は、水に沈んで、古い自分は死に、引き上げられて、新しく、生まれ変わって生きることを意味しました。
洗礼は、もともとは、ユダヤ教の異教徒の改宗者に洗礼をさずけて、ユダヤ教徒になる儀式でした。
ヨハネは、ユダヤ教徒でも、神さまの前に罪を告白しまことのユダヤ教徒になる、神の民になる洗礼をほどこしていったのです。
今日の御言葉は、その洗礼者ヨハネが、悔改めよ、天の国は近づいたと宣べ伝えたという言葉です。
悔い改めは、方向転換、180度向き直ることです。神さまに向きを変える、神さまに帰るということです。
悔い改めと言う言葉は、回心、心が回ると言う言葉と同じ意味です。
神さまから離れるようとして歩いていた人は、向きを変えて、神さまの方に歩いていくことです。
人は、人の方に歩こうとします。この世の雑音やゴミが好きなのです。神ならぬものに人は魅力を感じるのです。
それが不義であり罪になります。そういうように、人の方に向いた人間は、どうしても心を回すことができないのです。方向が間違っていることを知っていても、方向を変えられないのです。
ルカによる福音書15章に、放蕩息子のたとえ話しがあります。これこそ、悔改めがテーマのお話です。
父親の財産の半分を、あらかじめゆずりうけた弟が、それをお金に換え旅に出ます。そして、お金をすべて、使い尽くしてしまうのです。
身を持ちくずしてしまう放蕩息子は、誰もが経験する罪の姿です。人間の方に、人はあまりにも向きを取るのです。父親である神さまに、向きが取れないのです。神さまに背を向けてしまうのです。
弟は、財産を使い尽くし、神さまから遠く離れたところに落ち込んでいった、荒れ野にまよいこんでしまったのです。
人はどこに向きを取るか、顔をどこに向けるのかと言うたとえ話です。
豚の番をし、豚のえさを食べようと思うほど、落ち込みます。
豚は、異邦人のことです。神さまを知らない人々、向きが、神さまに合わせられない人々のことです。
その放蕩息子が、本心に立ち返ります。父親を思い出したのです。父親である神さまを思い出し、神さまのところに帰ろうと、悔改めがそこに起こったのです。
そして、父親である神さまは、息子が戻ってくるのを、毎日毎日、考えていたのでありましょう。朝に、昼に、夕に、いなくなった息子、放蕩の罪におち、神さまから遠く離れてしまい、荒れ野、帰る道も荒れ野の息子の帰るのを毎日思っていまし。父親は、放蕩の息子が帰ってくるのを、かけ寄って迎え、最上のもてなしをしたのです。
洗礼者ヨハネは、悔改めよ、神さまに立ち返りなさいと宣べ伝え、そして、そのしるしの洗礼をさずけて回ったのです。
悔改めよ、そしてヨハネは、天の国は近づいたと宣べ伝えました。
「天」というのは神さまのことを言い替えた言葉です。神さまのご支配という意味です。神さまが王として支配される王国、それが天の国、また神の国です。
ですから「天の国は近づいた」というのは、神さまの王としてのご支配が確立する時が迫った、神さまが王として来られる日が間近いということです。
天の国の接近です。洗礼者ヨハネは、主イエス・キリストの到来を叫んだのです。
神さまの独り子イエス・キリストがこの世に来られた、いよいよ神さまの救いがきた、そのことによって、神さまの王としてのご支配がはじまる。天の国が近づいた、キリストがまさに来ておられるのです。
キリストによって、その十字架にわたしたちの罪を赦され、復活によって、天の国の、神さまのご支配の戸が、門が開かれました。
悔改めて、洗礼を受けるという順序ではなく、恵みを受けているので、洗礼を受けるのです。
わたしたちは、今日も荒れ地を歩きます。道が無い、山は高く、谷は深い。解決のいとぐちもない毎日です。
しかし、ヨハネが、キリストを指し示しました。悔改めよ、天の国は近づいたと。
これは、まったくそっくり、キリストも言われた言葉です。
わたしたちは、キリストの道を見ているのです。