2021年7月11日(日)聖霊降臨節第8主日 宣教要旨

マタイによる福音書7章24~29節

「岩の上に家を建てた人」

7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。

7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。

7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

7:28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。7:29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

今日の聖書の箇所は、山上の説教の結び、家とその土台のたとえです。

そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ていると主イエスは言われました。

山上の説教、その全体を聞いて行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ていると言うのです。

一方、愚かな人は、聞いても行わない、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ていると言うのです。

たとえは、岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人の差です。たとえ自体は、誰にもよくわかるはずです。

問題は、聞いて行う人と、聞いていても行わない人の、その違いがあるということではないでしょうか。

ここには、聞いても従えないわたしたちの現実が、わかっていてもできないわたしたちの現実があるからです。

世の中には、すぐれたアドバイスがたくさんあります。言われたように生きれば、充実した人生をおくることができると思います。

同じように、山上の説教の教えも、言われたとおりにできれば、充実した、幸福な日々を過ごせるのだと思います。

しかし、知っていてもできない、知っていながらしないというわたしたちの現実があるのです。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分であると主イエスは言われました。

しかし、悩んでもしようがないことだとわかっていても、明日のことを、あす明日考えればよいことを、わたしたちは考え込んでしまいます。雪だるまのように、頭の中で問題が大きくなるのです。

ですから、わたしたちは、聞いてもできない愚かな人です。砂の上に自分の家を建てようとしているのです。

わたしたちには、苦しみが、悩みが、試練として、鍛錬としてふりかかることを知っています。

主イエスのお話ですが、雨が降り、川があふれ、風が吹くと、家は倒れてしまうと言われました。

多くの注解者は、旧約聖書創世記の、ノアの洪水のイメージを、聞いている弟子たちや群衆は思い浮かべたに違いないと書いています。

雨が40日40夜降り続き、地に大洪水が起きました。いっさいの生き物が、地からぬぐいさられました。

ただ、神さまのみ言葉に聞き従ったノアとその家族は、箱舟を準備し、箱舟に入り、生きのびたのです。

主イエスは、雨風の日がくる。将来、いつか洪水が起こるというのです。そのとき、わたしたちの住む家は、流されることのない、岩の上に家を建てておかなければならない。み言葉を聞いて行う、賢い人でなければならないと言われたのです。

この時代は、洪水の時代です。無秩序な科学の時代です。人間を含め、生き物が生きていけないような環境の時代です。

弱い人たちがしいたげられる現実、体に心に病む人間の現実があります。

洪水が、大水がおしよせる時代は、将来ではなく、現実として来ていると思うのです。

さて、賢い人は、雨が降り、川があふれ、風が吹いて家は倒れませんでした。賢い人は、岩の上に自分の家を建てたからでした。

ルカによる福音書では、賢い人は、岩に深く堀り、柱を立て、土台をつくり、家を建てたと書いてあります。

岩(ペトラ)という言葉は、エルサレムの岩山を、その町を連想させます。

ユダの砂地ではなく、岩は、わが岩、エルサレムのことを言っているのではないでしょうか。そこに深く掘って建てた家は、土台がしっかりとしているのです。決して倒れることはありません。

主イエスの十字架は、岩を深く堀り、立てられました。主イエスのつかれた十字架を、その十字架を、わたしたちの人生にも立てなければならないのです。

わたしたちは、主イエスという土台に、家を建てているのです。

教会も、わたしたちの家です。そこに住む人は、御言葉を聞いて行う、岩の上に家を建てた賢い人なのです。

わたしたちは、この岩、キリストを土台とした家に招かれ、住まわされているのです。

エルサレムへの道のりで、人はそれぞれ、自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさいと、主イエスは言われました。

その十字架を、また、主イエスが負ってくださった十字架が、わたしたちの土台となっていると、聖書は書いているのです。

結びです。

これらの言葉を、律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになったと、群衆は驚きました。

権威ある者は、力ある者です。神さまの力、神さまが語られるように語られたので群衆は驚いたのです。

御言葉に聞いて、行うことのできる、岩の上に家を建てた賢い人に、あなたがたは似ていると、主イエスは、わたしたちに言っているのです。

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