2022年7月10日(日)聖霊降臨節第6主日 宣教要旨

マルコによる福音書6章6~13節

「十二人を派遣する」

6:6それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。

6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」

6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

主イエスが十二弟子を遣わす際の心得です。

二人ずつ組にして遣わすと言われました。二人の強みは、助け合い協力するということでありましょう。また、あるいは自分を表に出さないということでありましょう。 一人では自由すぎるので、また一人はわがままが出るので、二人で行きなさいと言われたのでありましょう。

そして、おおきな権能を授けます。汚れた霊を、悪霊を追出す権能、資格と力を授けて送り出したのです。

厳しい心得、教えが続きます。

ここでは杖と履物は許可しますが、その他のもの、パンや食べ物を持って行くことは許可しません。袋は何か旅に必要なもの、施しをいただく袋のことでしょう。袋も持って行ってはならないというのです。

お金も持って行ってはなりません。下着は一枚だけです。

必要最低限というより、必要なものも持って行ってはならないというのです。

マタイによる福音書とルカによる福音書の同じ派遣の記事では、杖と履物も禁止します。

杖は蛇を追い払ったり、動物に襲われた時に身を守るものでした。

履物も履いてはなりません。裸足ででかけなさいというのです。

マルコによる福音書と、どちらが本当かはわかりませんが、どちらも、その時々に主イエスが言われた言葉であったのでしょう。非常に厳しいことを言われたのです。

主イエスの、派遣に際しての弟子への心得です。

持ち物を持たない生き方です。いわゆる、托鉢という生き方です。必要なものは備えられます。お世話になるという生き方です。その場所、その時々にいただきなさいという生き方です。

乞食(こつじき、こじき)という言葉があります。仏教の修行における乞食が転じて、他人から物品や金銭の施しを受けて生活している者を指すようにもなりました。

一般に住居を持たない貧困者(ホームレス)が行う事が多いと誤解されているため、転じてホームレスをさす言葉としても使われる場合があります。

西洋では、古代、ローマ帝国の成立において、大規模な戦争によって土地を失った人々が大量に都市に流入し、物乞いを行う人々の人口を膨張させたと言われます。

産業革命が起きた際にも、手織職工や機織職人が食べて行けなくなり、都市部を中心に物乞いを行う人々を増大させたといわれます。

乞食(こつじき、こじき)は、本来は仏教用語で、「こつじき」と読みます。僧侶が自己の色身、物質的な身体を維持するために人に乞うことです。行乞(ぎょうこつ)、また托鉢、十二頭陀行(じゅうにずだぎょう)の一つで、これを清浄の正命と定めるものです。

もし、自ら種々の生業(なりわい)を作(な)して自活することは邪命であると定めるものです。

この意味が転じて、路上などで物乞いをする行為。具体的には他人の憐憫の情を利用して自己のために金銭や物品の施与を受けることをいうようになりました。

古代インドのバラモン階級では、人の一生を学生期、家長期、林住期、遊行(遍歴)期といい、四住期に分けて人生を送りました。

このうち最後の遊行期は、各所を遍歴して食物を乞い、ひたすら解脱を求める生活を送る期間でありました。またこの時代には、バラモン階級以外の自由な思想家、修行者たちも、この作法に則り、少欲知足を旨として修行していました。釈迦もまたこれに随い、本来の仏教では修行形態の大きな柱であったわけです。

特に釈迦の筆頭弟子であったサーリプッタ(舎利弗)は、五比丘の一人であるアッサジ(阿説示)が乞食で各家を周っている姿を見て、その所作が端正で理に適っていることに感じ入り、これを契機に改宗して弟子入りしたことは有名な故事です。

このように仏教では乞食、行乞することを頭陀行(ずだぎょう)といい、簡素で清貧な修行によって煩悩の損減を図るのが特徴です。

また、僧侶は比丘(びく)といい、これはサンスクリット語の音写訳で、「食を乞う者」という意味です。これが後々に中国で仏典を訳した際に乞食(こつじき)、また乞者(こっしゃ)などと翻訳されたことにはじまるのです。

主イエスは、世話をしてくださる家があればそこに旅立つまでとどまりなさいと言われました。しかし迎え入れてくれなければ、耳も傾けてくれないのであれば、足の裏の塵を払って出なさいと言われました。踵を返して、次の旅、次の家に向うのです。

非常に大きな権能が弟子たちに授けられました。多くの悪霊を追出し、病気を治す権能です。

実は、ここには、非常に成果があったという報告はありません。実際には、弟子たちの伝道は失敗したのです。この後、悪霊を追い出せない、病気の人をいやせない弟子たちを、主イエスが叱るところがあります。

本当に主イエスの教えが実現するのは、主イエスの死後です。復活の主イエスが、弟子たちを再び遣わすところです。あるいは、それでも主イエスが言われたようには、弟子たちはできなかったのかもしれません。

鍵は見せられたが、どういう鍵を、どこに使うのかはわからなかったのであります。鍵の鋳型を見せられて、ここから何ができるのかもよくわからなかったのです。

今日の聖書は、主イエスの弟子への心構えです。それは、わたしたち一人ひとりにあてはまる御言葉です。

弟子たちも、わたしたちも、失敗に失敗を重ねて行きます。それが実現するのは、かなりの時間が必要なのです。

アンデルセンに、みにくいアヒルの子という話があります。

自分はみにくいアヒルだと思っていました。他と比べて、手の長さが長すぎます。首もどうして、自分はこうも長いのだろうかと思いました。他のアヒルはかっこよくて、自分はバカにされているようだと思いました。しかし、みにくいあひるの子は、ある日、自分はアヒルではなく、白鳥であることを知るのです。

弟子たちは、実際、失敗の連続でした。みにくいアヒルでした。

自分たちも捕らえられることを恐れ、逃亡したのです。

しかし、ある日、御言葉にしっかりととらえられることになります。主イエスの御言葉にとらえられていたことに気づくのです。

わたしたちも、みにくいアヒルではなく、白鳥なのではないでしょうか。これほど美しい鳥は、他にはいないのです。

 教会は、聖書の御言葉によって組み上げられ、一人ひとりが用いられ、遣わされているのではないでしょうか。

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