マルコによる福音書13章3~13節
「終末の徴」
13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
3節から読みましたが、1、2節は、「神殿の崩壊を予告する」という箇所です。
主イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
すると、主イエスは、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と言われました。
主イエスは、大きな建物、その神殿も崩れると言ったのです。
主イエスの時代のエルサレム神殿は、威容を誇っていました。ソロモンの第1神殿、捕囚後に再建されたゼルバベルの第2神殿、そして、主イエスの時代の第3神殿です。
第3神殿は、ヘロデ大王が約30年かけて大改修し、ほぼ完成していました。壮麗な建物であったと言われます。
人々も満足し、弟子たちも何とすばらしい建物でしょうと言うほどでした。しかし、人々の信仰を受けとめる建物ではなかったというのです。主イエスは、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と、神殿は崩れ去ると予告したのでした。
マルコによる福音書の13章は、「小黙示録」と言われます。予言の形式のひとつです。ドラマチックに、世界の終りを、宗教的に描いたかのような文章です。
大いなる苦難、世の終わりの切迫性、波乱、そして救済者の出現を予言します。
神殿の崩壊を予告した主イエスは、神殿を立ちさり、オリーブ山で神殿の方を向き、座りました。
弟子たちが、主イエスにひそかに尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときにはどんな徴があるのですか。」
主イエスのお答えです。人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗るものが大勢現われ、わたしがそれだといって多くの人をまどわすだろう。
気をつけなさいは、注意しなさいという意味です。2回、5節と9節に、あなたがたは自分のことに気をつけていなさいと言われます。
もとの言葉は、見なさいという言葉です。見るべきものに目を注ぎなさい、しっかりと見なさいという言葉です。
惑わされないように気を付けていなさい。多くの人が惑わすだろう。惑うというのは、本当でないもの、自分で光輝いているのではない星のことです。
キリストの名を名乗るものが大勢あらわれる。戦争の騒ぎや戦争のうわさが立ちのぼる。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。また、地震や飢饉といった天変地異も起こる。
しかし、あわててはいけない。しかし、それが終わりをもたらすのではないと、主イエスは言われました。
世の終わりは、人間のどのような建設のいとなみによっても来ない、人間のどんな破壊によっても起こらないということではないでしょうか。
天変地異は、終わりではなく始まりなのです。
自分のことに気をつけていなさい。弟子たちも苦難を経験します。
あなたがたは、地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。わたしのために総督や王の前に立たされる。
「証をすることになる」とありますが、それは、言葉から殉教を予想させる言葉です。
しかし、それが世の終わりではない。それは産みの苦しみのはじめにすぎないというのです。
その時、あなたがた自身の中に、見るべきものを見いだしていなければならないと主イエスは言われます。
そして10節には、福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならないと、主イエスは言われるのです。
「宣べ伝えられねばならない。」この「ねばならない」というのは、たいへん興味深いことに、主イエスが、ご自分の十字架の死を語る時にも用いられた言葉です。「人の子は必ず人の手に渡されて、十字架につけられて殺されなければならない。」つまり、神さまのご意志を示す「ねばならない」です。
11節からです。主イエスは、「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには教えられることを話せばよい。実は話すのはあなたがたではなく聖霊なのだ」と言われました。
今日の聖書の箇所はこのように結ばれています。
13節です。「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
誰もが終わりのときを生きています。惑わす者、戦争、裁判、家族の崩壊があります。そういうことは起こるのです。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
神かみさまのお守りのうちに、わたしたちは生きています。主イエスが救主だからです。
最後に、もう一度、13節の言葉です。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と、一本調子で翻訳されています。
そのまま読みますと、「最後まで耐え忍ぶ者、そのものは救われる」となります。
最後まで耐え忍ぶ者、そこで何も書いていないのです。一息入れているのです。そしてその者は救われるというのです。
信仰者は堅く信仰に立ち続けます。しかし、それは信仰者が自分で自分を支えるのではありません。そうではなくて、神さまが担ってくださっている、神さまが耐えていてくださる、そこに信仰者の堅く立つ基盤があると思うのです。
「崩壊感覚」と呼ぶようなものが現代人の中にもあります。何かが崩れていく予感です。崩れるものにいつも脅える思いです。
しかし、世の終わりというのは、この世界が崩壊する、滅び去っていくということだけではありません。神の国の訪れ、まことの神のご支配が立てられるということです。
「終わり」と意味するギリシャ語は、「完成」、「目当ての成就」という意味を持っています。主イエスが再び来られて、その救いを完成し、神さまは神さまのご支配をお立てになるのです。
自分のことに気をつけていなさい、自分を見なさいと主イエスは言われました。