マルコによる福音書3章31~35節
「主イエスの母、兄弟、姉妹」
3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
今日、5月の第2日曜日、母の日は、教会で始まった日です。
もともと、ギリシアやイギリスで、母に限らず、両親を偲ぶ日がありました。亡くなった両親を偲んで、生まれ故郷の教会に行って、両親を思う日がありました。それは四旬節(レント)の第4日曜日でした。
一方、アメリカで、教会学校に通っていた子、アンナが、母が亡くなった命日に、母が好きだったカーネーションを飾っているという話から、母の日の習慣が生まれました。
どちらにしても、既に亡くなった母を覚える日が由来です。また、母の日は、教会で守られ、始まった日なのです。
主イエスの実の家族、母と兄弟姉妹が主イエスを探しにきました。
すると主イエスは言いました。わたしの母、わたしの兄弟とはだれか、どちらの家の者かと。周りに集まっていた人々に言ったのです。
この話は、主イエスへの追従の話です。新しい家族とは何かを考えさせられる話です。
主イエスには実際の家族がいました。父ヨセフは、ルカによる福音書の主イエスの誕生の記事に出てきます。また、ルカによる福音書の主イエスの少年時代の話にも出てきます。
その後、父は、聖書には出てきませんので、早いうちに他界したと思われます。
母マリアは、いろいろな場面に出てきます。母は、主イエスの十字架の場面にも出くわし、その後の教会の歩みの中で、主の母として、大事にされたと思われます。
マルコによる福音書6章です。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか、主イエスには、実際の、4人以上の弟と複数の妹たちがいたことがわかります。
父ヨセフが早く他界し、働き手のいない家族に、主イエスは長男として、一家の大黒柱であったことがわかります。
主イエスは、父ヨセフの後を継いで、大工をしていたと思われます。主イエスの言葉に、軛は負いやすいとか、目の入るおが屑と梁のたとえは、大工ゆえの言葉であったでありましょう。
もともと日本は、母系社会、女系社会です。集団への帰属、地位の継承、財産の相続などが、母親から子供へ伝わる母系社会です。
一見、古来から、日本は男性が地位や財産を持っているように見えるのですが、その財産は、男の子ではなく、姉妹の子どもに受け継がれてきたのです。
逆に言えば、子どもは、母親の兄弟から地位や財産を受け継ぐということになります。母系社会では、女性がいないとその血筋が絶えるので、そのために女性は父系社会より相対的に高い地位にあるのです。
一方、ユダヤ社会は、父系社会でした。父親から男の子へすべてが受け継がれます。典型的な父系社会、男系社会です。
ユダヤの系図ですが、旧約聖書の系図、新約聖書の主イエスの系図を見ると、典型的な男系社会であることがわかります。
このように、ユダヤでは、男子が家族の中心にいて、主イエスも家族の中心にいたのです。
主イエスは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼受けた後、ガリラヤで福音の宣教を始めました。時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさいと言ったのです。
悪霊に取りつかれた人々から悪霊が追い出され、病気の人々が次から次へと癒され、人々は主イエスに福音を聞いていきました。
弟子たちが選ばれ、多くの群集が集まり、主イエスに従っていくようになりました。
実際に苦しんでいた人々が、神さまはいるのだろうかと疑っていた人々が、変わるはずがないと思っていた自分たちの生活が、彼らの現実が変えられていったのです。日常の生活が変わっていきました。
人々にとって、主イエスは、まさに、福音、良い知らせでした、彼らに神の国がやってきたのです。
新しい家族が始らないはずがありません。家族から見捨てられた人々に、家族をなくした人々に、家族があっても家族のつながりをなくしていた人々に、主イエスは、あなたがたがわたしの家族である。わたしの母、兄弟姉妹であるとの、福音を聞いたのです。
家族は親密ですが、争う者であることを聖書はまた記します。
カインとアベルの兄弟殺し、ヤコブとエサウの兄弟喧嘩、兄弟同士の裏切り、陰謀などを聖書は記します。
主イエスの実際の家族はどうであったでしょう。家族は、一家の中心である主イエスを取られてしまったと思いました。
ひとつ前の段落です。身内の人たちが主イエスを取り押さえに来たことがわかります。主イエスが、気が変になっていると悪口を言う人々がいたからです。
ガリラヤのナザレから出た預言者主イエスを、救世主、メシアと崇める人々がいた反面、気が変になっていると、悪霊の仲間だ、汚れた霊に取りつかれていると言う人々がいたのです。
家族は心配で、主イエスをさがしに来ました。
家族関係はむずかしいことで、そのあり方に答がありません。
主イエスの言われた、ここにわたしの家族がいると言った家族は、縦の家族のことです。
十字架には、横の木と縦の木があります。横の木は、実際の家族です。縦の木は、永遠性のある、宗教の家族のことでしょう。
地上の家族は大事です。しかし、地上の家族はやがて別れていき、離れていきます。
一方、宗教の家族、教会の家族は、横の家族に対して縦の家族です。永遠なる父なる神さま、母なる教会、兄弟姉妹の家族です。
ある日病院の病室に一羽の燕がまいこみました。それはうれしいお客でありました。
その燕は何人かの病人のベッドにまいこんでしまって出られません。出口がなかなか見つけられないのです。
しかし、ひとりひとりを見舞うかのように飛び回り、やっとのことで入ってきた窓から出ることができました。それはうれしいお客であったのです。
病院でも、お見舞いに毎日きてくれるわけではありません。お見舞いの来る病人はうれしい。しかし、誰もこない病人もいます。さみしい思いをするのです。家族があればくる人、家族のない人もいます。
そういう意味で、つばめの来客は、誰を見舞いにきてくれたかのように、うれしいたのしいお客であったという話です。
主イエスは、わたしの母、わたしの兄弟とは誰かと、まわりに座っている人々を見回し、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだと言いました。
神さまの御心とは、神さまの欲すること、願うことを行う人々、キリストの家族、すなわち教会のことです。
主イエスは、実際の家族を否定したのではありません。十字架の横の家族があって、縦の家族、父なる神さまにつながる家族があると言ったのです。
もうひとつの家族が必要です。愛の十字架を中心にした、キリストの十字架を中心とした家族、天をさししめす家族が必要なのです。
主イエスを信じる兄弟姉妹、教会の家族のことを言われたのです。