マルコによる福音書1Ⅰ章15~19節
「神殿から商人を追い出す」
11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」
11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
神殿から商人を追い出す、いわゆる、宮清めというお話です。
エルサレムには、かつて、その町の中心に神殿がりました。
最初の神殿は、第1神殿と言います。紀元前10世紀、ソロモン王の時代に建てられました。一番国力、財力のあった時代です。レバノンの糸杉を使った立派な神殿でした。
主イエスがエルサレムに上り、見た神殿は第2神殿と言います。
ソロモンの神殿は、紀元前6世紀、新バビロニア帝国が攻め入り、エルサレムの神殿も焼かれました。
捕囚後、ゼルバベルの指揮で建立されたのが、この第2神殿です。主イエスの時代、威容を誇っていたと言われます。
その第2神殿に、主イエスの一行が入りました。
主イエスの宮清めです。神殿の広い境内地で、主イエスは両替人の台をひっくりかえしました。それは、ローマの貨幣をユダヤの貨幣に交換する両替商の台です。
鳩を売る者の腰掛けをひっくり返しました。犠牲の動物、牛、羊、鳩などを売る商人の腰掛けをひっくり返したのです。
4つの福音書が主イエスの宮清めを報告しています。特にヨハネによる福音書では、主イエスが縄でむちを作り、犠牲の牛や羊を追い出し、両替人のお金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちを罵倒し、わたしの父の家を商売の家にしてはならないと言ったと記されています。
マルコによる福音書では、わたしの家はすべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところがあなたたちはそれを強盗の巣にしていると、イザヤ書とエレミヤ書の預言を引用しました。
主イエスの神殿批判です。神殿を強盗の巣、商売の巣にしているという批判、怒りをあらわにしたのです。
主イエスの時代、エルサレムの第2神殿に、商人がむらがっていたのです。
注目すべきは、主イエスは、この神殿は、わたしの家と言っていることです。この神殿は、神の子、イエス・キリストの住まいであると言っていることです。ですから、ここは、祈りの家と呼ばれるべきであると言ったのです。
主イエスの廻りには、多くの人が集まりました。病気の人や、悪霊に取りつかれた人や、重荷を負った人たちです。疲れ果て、弱り切った人たちでした。
この人たちを、主イエスは奇跡の手をもって、いやし、治していったのです。
わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきであると主イエスは言われました。しかし、わたしたちはどうでしょうか。強盗のように、自分勝手な欲求を求めます。うまく生活したいとか、心穏やかにすごしたいとか、困ったことにはかかわりたくないとか、悲惨なことにめぐりあいたくないとか思っているのです。
使徒言行録3章、美しい門の話です。足の不自由な人がいやされた話です。
ペトロは、金銀はわたしにはないが、持っているものをあげよう、ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさいと言いました。
キリストを信じる人は、金銀は持っていませんでした。持っている財産は、ナザレ人イエス・キリストの名だけでした。神の子、救主イエス・キリストの名だけでした。
キリストのその生涯が自分たちの財産でした。この方によって救われるという、初代教会のエピソードです。
13世紀は、ローマ・カトリック教会の力が頂点にあり、政治力もあった時代です。
トマス・アキナスというドミニコ会士、神学者がローマ教皇に謁見しました。
教皇は、迫害もあったが、教会はここまで大きくなったと話しました。
そういうやりとりの後、トマスは、しかし教皇さま、金銀は有り余るほどありますが、人を立ち上がらせるような力はなくなりましたなと、皮肉ったというのです。
教会も祈りの家であるべきです。礼拝の家であるべきです。しかし、わたしたちは、物質的にも、精神的にも、強盗の巣にしてしまう誤りをいつも犯しやすいのではないでしょうか。
主イエスは、わたしたちの過ちや誤りをよくご存知でした。わたしたちの実際にこたえられたことも事実です。その上に、わたしの家は祈りの家、礼拝の家と呼ばれるべきであると言われたのでした。
わたしたちには、逃れることのできない重荷があります。病気もあり、死もあります。
この重荷を、キリストが十字架に負ってくださいました。そして、復活のキリストは、その更に先の希望を示してくださったのです。
主イエスのゲッセマネの祈りは、十字架を引き受ける祈りでした。
主イエスは、わたしたちに、それぞれ自分の十字架を負って従いなさいと言われました。しかし、わたしたちの十字架を、主イエスはいつも負ってくださり、一緒にいてくださるというのです。
祈りの家に集う生活は、主イエスが、十字架を引き受けたというその祈りにあずかる生活です。
わたしの家はすべての人の祈りの家と呼ばれるべきであるという主イエスのお言葉を聞いています。
キリストがわたしたちのために死なれました。主イエスの十字架のしるしに従いなさいと言っているのではないでしょうか。