2022年7月24日(日)聖霊降臨節第8主日 宣教要旨

マルコによる福音書8章22~26節

「ベトサイダで盲人をいやす」

8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。

8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。

8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」

8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。

8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

前週の聖書の箇所です。パンを心配する弟子たちに、主イエスは、まだ悟らないのか、まだ分からないのか、心が頑なになっているのかと言いました。

目があっても見えないのか、耳があっても聞こえないのか、覚えていないのかと問うのです。

今日の聖書は、主イエスが、ベトサイダで盲人をいやしたというお話です。

人々が主イエスに触れていただきたいと、一人の盲人を連れて来ました。主イエスがその人に手を置くと、人が木のように見えるようになったというのです。歩いているのが分かるというのです。

さらに手を目に当てると、何でもはっきり見えるようになったというのです。

見えなかった者が見えるようになりました。聖書の報告は簡潔です。

いやされた盲人の喜び、連れて来た人の喜びは、どのようなものであったでしょうか。

ベトサイダの盲人開眼の奇跡です。文字通り見えるようになった出来事です。

人々の熱心が、一人の盲人を主イエスのところに連れて来ました。触れていただきたいと願ったのです。

主イエスは、盲人の手を取り、村の外に連れて行きました。二人だけでのやりとりです。主イエスは、盲人の目に唾をつけ、何か見えるかと言いました。

最初、人が木の様だが、歩いているのが見えると言いました。

さらに両手をその目に当てると、徐々に良く見えてきて、はっきりと何でも見えるようになったというのです。

一方では、見えるようであっても見えない弟子たちがいました。一方では、見えるようになった盲人がいたのです。

まだ見えないのかという主イエスの声が聞こえます。見えないのか、聞こえないのかという声です。

日本の国が豊かになって見失ったものがあります。ある人が、それは自分だというのです。

自分が見えない、自分がわからない時代です。自分を探すことに一生懸命にならざるをえません。

豊かな時代の特徴は、見えると思っている自分が見えない、そういう時代なのです。

 貧しい時代には、自分はと、考える時間もありませんでした。しかし、今、自分は何をしたらよいのだろうかと思うのです。残りの年月を、何をすればいのだろうか、何かできるだろうかと、自分探しをはじめるのです。

見えるようになった盲人の話です。

一方、目があっても見えないのかと、叱られている弟子たちがいるのです。

目が見えることは言葉の通りです。しかし、心の目が、魂の目が開いているのだろうかという問いなのです。

もちろん、見えるようになるということが大事です。

イザヤ書35章です。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。

荒野に水が沸きいで、川が流れるといいます。

見えない人が見えるようになりました。何か見えるかというキリストの声、力ある声は福音なのです。

あきらめていたことでした。しかし、荒野に水が沸き、川が流れる、奇跡が起きたのです。

見えないものが見えるようになる。想像できないような喜びであったのでしょう。

逆に、豊かに恵まれているのに、見えていないことがあるのです。

最期に、主イエスは、この村に入ってはいけない、言いふらしてはいけないと彼をいさめました。

主イエスは弟子たちを批判します。

また、ファリサイ派の人々に、見えると言い張るところにあなたがたの罪があると、主イエスが言った箇所があります。見えるという罪があるというのです。

人の姿は罪の姿をとります。わたしたちは見えるとい言い張る罪人です。見えていて見えない罪人です。

人が罪びとであることを知っている者が、神さまを信じる者だと思います。

自分たちは本当に罪人で、罪深いのです。

見えていないことを知っているわたしたちを、主イエスが、頑ななわたしたちの心を開いてくださいました。

罪はおまじないでは消えません。罪は、独り子の十字架の死によってもろとも滅ぼされてしまいました。

マルチン・ルターの言葉です。救われたわたしたちは、罪人でありながらも同時に義人、正しい者にされたと。

人は誰でも罪深いのです。それでも、主イエスがわたしのために死なれました。そして罪を赦されたのです。このことこそ、わたしたちが生きる基礎となるのです。

そのことが見えると、はっきりと見えると、新しく生きることができるのです。

 見えない者が見えるようになったという話です。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加