2023年3月12日(日)復活前第4主日・受難節第3主日 宣教要旨

ルカによる福音書9章18~22節

「ペトロ、信仰を言い表す」

9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」

9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

主イエスが弟子たちに向かって、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」、また、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお問いになったということが書かれています。すると、ペトロが弟子たちを代表して「神からのメシアです。」と応えられたというのです。

 主イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいました。何を祈っていたのか、ここには、はっきりとは書かれていません。しかし、この前後を読みますと、分かります。

 ことに、この祈りの後、主イエスはご自分の受けるべき苦難について弟子たちにお話になりました。また、そのすぐ後には、エルサレムに顔を向け、十字架へと踏みだし、道を進まれます。

 このとき、ひとり主イエスは祈り、父なる神の御心をお受け止めになられたのでした。

 この祈る主イエスと共に、弟子たちがいました。そして、この祈りの中に、すなわち、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりの中にお招きになるかのように、主イエスは弟子たちにお問いになります。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが応えます。「神からのメシアです。」

 「メシア」とは、「香油を塗られた者」、「油注がれた者」という意味です。旧約聖書では王さまや預言者が神から任命される時に、香油を塗ったところからメシアという名称が起こり、「救い主」を表すようになりました。そのギリシャ語訳はキリストです。

 ペテロは主イエスを「あなたは、メシアです」と告白しました。これは、最初の信仰告白です。

 主イエスは、ペトロの告白をお喜びになりました。しかし、神さまが主イエスにお委ねになったのは、そのようなことではありませんでした。次の段落、22節に、主イエスはご自分を「人の子」と言っておられます。その特別な呼び名によって、ご自分に与えられている使命をお話になるのです。

 「人の子」、この呼び名は旧約聖書のダニエル書の中で最初に出てきます。黙示文学的な預言の言葉ですが、それによれば、この世の権力者、それは「獣」に例えられています、この世の権力者が滅んで、その後に遣わされる救済者、「獣」ではなく「人の子」、まことに神の御前に立つ人に相応しく、人を人として顧み、お救いくださる王のことを指していました。

 主イエスは、人の子とご自分をお呼びになって、苦難と死と復活を通して、神の愛を示し、救いを実現するメシアであることを、お示しになったのです。

今日の箇所で、幾つかのことを心に留めたいと思います。

 まず、第一に、主イエスは、わたしたちに信仰をお求めになったということです。

 御自分がこれから、多くの苦しみを受け、十字架へと向かわれる、その道をごらんになりながら、眼下に広がるこの地に対する祝福を祈られたのではないかと思います。

 そして、弟子たちにお問いになったのです。「あなたがたはわたしを誰と言うか」、「わたしを何と告白するか」、このように、弟子たちに信仰をお求めになったのでした。

 信仰をお求めになったということは、主イエスが弟子たちをご自身に、神さまの祝福に,しっかりと結びつけるためでありました。

 新約聖書ヨハネの手紙一の中に、こういう御言葉があります。

「イエスが神の子であることを公に言い表す人は誰でも神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまる。」この言葉は、このような消息を言い表している言葉です。

 主イエスは弟子たちに、お問いになったのは、あなたがたは、神の祝福を信じるか。あなたがたに注がれる祝福、この世界に向けられた祝福を信じるか。そう、問われたということでた。

 心に留めたい二つ目のことです。

 それは、主イエスはどうして、弟子たちに、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と、最初にお尋ねになったことについてです。

 人々が抱いている思い、評判や噂を主イエスは気づいておられないはずはありません。「あなたがたはわたしを誰と言うか」と短刀直入に、最初から質問しても良かったのではないでしょうか。

 群衆と弟子たちとは違う、弟子たちには他の人々とは違う答えを聞きたかった。弟子たちの自覚を促すためでしょうか。群衆の評判をただ単に気にしたのでしょうか。

 そうではなくて、群衆が主イエスを何と言っているか。弟子たちは、そのことに心を配るように。群衆もまた、主イエスを、「あなたは、メシアです」と告白するにいたらなければならない。弟子たちはそのことを覚えていなければならない、そのような願いが込められていたのではないでしょうか。

 主イエスが弟子たちにお尋ねになり、そして、信仰の告白をお求めになったように、他の人々も、主イエスの問いの前に立つことができるように。また、弟子たちの信仰の告白、その祝福によって、他の人々も祝福を受けるように。この方は誰だろうか、人々はわたしのことを何者と言っているかと問うたのです。

 それで主イエスは、まだ、このことを誰にも話さないようにと戒められたのです。

 そのことと関連して、大切なことが、以下に記されています。主イエスが、このあとすぐに、ご自分が多くの苦しみを受け、十字架につけられること、そして復活されることを、弟子たちに予告されたことが記されています。

 「人の子が必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。と弟子たちに教えはじめられた。」とあります。

 ペトロは、その主イエスのお言葉を聞いて、とんでもないことだと思ったようです。しかし、主イエスは、ご自分の受けるべき苦難をお話になりました。

 主はイエス、これからエルサレムへと向かわれます。その旅は、常に弟子たちを弟子として教育する歩みであった、弟子たちは、主イエスと共に歩みつつ、弟子としての姿を学んでいきます。

 その歩みは、「わたしは誰であるか」という問いを、繰り返し聞き、それに答える日々と成るということでありましょう。

人々に、話してはならない、とお命じになった主イエスは、弟子たちに、わたしの後に従ってきなさい。そして、わたしが誰であるかを学びなさいと言われたのです。

 主イエスが問うてくださらなければ、弟子たちは主イエスにお答えすることはできなかったでありましょう。主イエスは、弟子たちの誤解、無理解、すべてをご存知で、弟子たちにお問いになったのです。

 そして、主イエスと共に歩むことによって、弟子たちは、「あなたはメシア(キリスト)です」と告白した、その祝福が、どんなに恵み深いことであるかを教えられていくことになったのだと思います。

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