2023年8月6日(日)聖霊降臨節第11主日 平和聖日礼拝 宣教要旨

ルカによる福音書10章25節~37節

「善いサマリア人」

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

人という漢字のつくりです。二人の人がお互いを支えあっている、寄り添っている形からできています。人は、お互いに支えあって生きているのです。

人間という漢字は、人の間に大勢の人がいるということです。

つまり、人とか人間は、一人ではありません。人は、いろいろな人に支えられ、人との間に、つながりの中で生きているのです。

アメリカのある雑誌の記者が、自分である実験をしたという報告です。

自分が交通事故で怪我をしたように装って、高速道路のかたわらに横たわってみたというのです。

それでどうだったのでしょうか。

車は次々と通り過ぎて行きます。車を止めてくれて、助けようとしてくれたのは、57台目だったというのです。

何と人間は、人と人との間に生きているのですが、薄情、自己中心的だという報告でありましょう。

善いサマリア人のたとえです。

では、わたしの隣人とはだれですかという質問から始まります。

追いはぎにあって倒れた旅人は、仲間が助けたのではありません。ユダヤ人ではなく、サマリア人でした。

ユダヤ人とサマリア人は、歴史的な事情があって、反目しあう仲でした。ユダヤ人とサマリア人は交際をしてはならない。食事を一緒にしてはならないと、お互い嫌いあっていたのです。

傷ついた旅人を助けてくれたのは、このそのサマリア人であったというのが、このたとえ話の大事なポイントです。

エルサレムからエリコへ下って行く途中の山道です。ある人が追いはぎにあって、倒れてしまいました。

祭司、レビ人がたまたま通りかかるのですが、いずれも、その人を見ると、道の向こう側を通って行ってしまいました。近寄ろうともしません。

祭司はエルサレムの神殿に仕える仕事です。レビ人も神殿に仕える仕事です。宗教的エリート、指導者でした。人々を律法に基づいて生き方を教える立場であったと思います。

彼らは、倒れている旅人を見るには見たのですが、自己防衛が、自分もまきこまれるかもしれないという判断が働いたのかもしれません。

もともとのたとえの始まりは、律法の専門家とのやりとりです。隣人を自分のように愛しなさいという律法の説明でした。

主イエスは、律法の専門家に、隣人とは誰なのかを、たとえで話されたのです。隣人とは誰かという話が、いつの間にか、誰がこの追いはぎに襲われた人の隣人となったかという話になりました。それは、襲われた人ではなく、助けた人、すなわちサマリア人が隣人であったというのです。

助けてくれる人が隣人というたとえなのです。

サマリア人は、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行き介抱します。さらにデナリオン銀貨二枚を宿屋の主人に渡し、この人を介抱してください。さらに費用がかかれば帰りがけに払いますと言いました。

自分も仕事があるので行かなければならない。しかし、傷ついた旅人のために、自分のできる最善を尽くすのです。

冬の穂高に伝わる話です。

一人の人が、雪と寒さで倒れてしまいました。身動きできず、息も絶え絶えです。

そこに一人の人が通りかかりました。自分の命さえ危ない状況です。この倒れた人を、自分はどうすることもできないと思い、見ながらも、自分は一人先を急いだのです。

またそこに、一人の人が通りかかりました。同じように、人が倒れています。自分も危険な状況です。しかし、その人は、助けようと思ったのです。その人は、倒れている人を背中にかついで、先を急ぎました。

自分も寒さに震え、やっと人を一人かついでいる。道のりは困難をきわめました。そして奇跡的に、この二人は、雪の中の道のりを助かったというのです。

一方、倒れた人を見捨て、助けることができないと先を急いだ人は、途中で倒れ、息絶えてしまったというのです。

どうして、助けた人はどちらも大丈夫だったのでしょうか。

人を背負って歩くことで、体が温まり、また息絶え絶えの背負われた人も元気を取り戻したというのです。

この話は、助けた人が逆に助けられたということです。

浜松に、聖霊福祉事業団という大きな福祉のグループがあります。

その施設は、今では、病院、学校、老人ホームなど何十もの施設、六千人の職員の大施設です。

その出発は、隣人を自分のように愛しなさいという聖書の御言葉に、主イエスの教えにありました。隣人とは誰でしょうかという質問が出発でした。

結核という、当時、有効な治療法のない、不治の病と言われた感染症です。その結核にかかった人たちをお世話しようという施設を、キリスト教の信仰をもった人たちが始めたのです。

その後の詳細については省略しますが、最初に、御言葉があったということをお話したかったのです。

最後に、主イエスは、行って、あなたも同じようにしなさいと言いました。

行ってとは、人生に出ていくということです。人生を歩き回るという言葉です。

同じように、サマリア人がしたように、あなたもしてみなさいということです。

善いサマリア人のたとえです。サマリア人は誰でしょうか。主イエスを手本としなさいというたとえだと思います。

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