2023年10月1日(日)聖霊降臨節第19主日 世界聖餐日・世界宣教の日 宣教要旨

ルカによる福音書22章14節~23節

「わたしの記念として」

22:14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。22:15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。22:16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」

22:17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。22:18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。22:21 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。22:22 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」

22:23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

主の晩餐は、最後の晩餐のことです。主イエスと共にした最後の晩餐です。また、主の晩餐は、過越の食事でもありました。

イスラエルの民は、エジプトの王ファラオがかたくななために、なかなかエジプトを出ることができませんでした。

神さまは、エジプトに十の災い下しました。かたくななファラオに、イスラエルが出ることを認めさせようとしたのです。

最後の災いが初子の死でした。

エジプトに住むすべての初子が、人の子も家畜の子も打たれ死んだのです。

さすがのファラオも、この災いには降参しました。ついにイスラエルがエジプトを出ることを認めたのです。

初子の死ですが、イスラエルの家だけは、家の鴨居と門柱に当歳の小羊の血を塗ることで、それが目印となってまぬがれたのです。イスラエルの家だけは、初子が打たれることをまぬがれたのです。

この出来事を過越と言います。神さまの怒りが、イスラエルの家を過越したからです。

イスラエルは、その出エジプトの恵みをいつまでも忘れないために、過越の祭りを毎年祝いました。

エジプトを出るとき、十分な食事の用意ができずにでたことを覚えて、苦菜と種入れぬパン食べます。

過越は、エジプトを出たときの先祖の記念でした。いつまでも、出エジプトの苦しみと恵みを忘れないように、その記念として過越の祭りを祝い、過越の食事をしたのです。過去の苦しみと恵みを、体で味わったのです。

過越の食事の特徴は、苦菜と種入れぬパンです。そして、杯が、ぶどう酒も飲まれました。

主イエスは、その食事のときに、杯を取って、飲みなさいと言い、そしてパンを取って与えました。

ルカによる福音書では、また、食事の後で、パンを食べた後、杯をまた回したと書いています。

この食事は過越の食事でした。エジプトを出たときの神さまの怒りと救いを忘れないためにです。まさにわたしたちの出エジプト、救いのためでした。

イスラエルがエジプトを出るときに、イスラエルの救いのために羊の犠牲が必要でした。罪の無い羊の血が流されました。それが目印となったように、主イエスの十字架の死が、わたしたちの罪のための犠牲となったと同じなのです。

過越の食事のときに、主イエスは、これはあなたがたのために与えられるわたしの体であると言いました。また、この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約であると言いました。

過越の犠牲の小羊が主イエスです。神さまの備えられた神の子主イエスが犠牲でした。

これがわたしの体である、これがわたしの血であると、聖餐式で繰り返し確認します。今日また、わたしたちはこの恵みにあずかるのです。

キリスト教のジョークです。ある電話の交換手が、20年務めてやめることになりました。

女性には、ひとつ気になることがありました。それは、20年毎日毎日、昼の12時5分前に、今何時ですかと尋ねる男性がいて、12時5分前ですと、いつも返事をしていたことです。

やめる最後の日も、やはり12時5分前に、今何時ですかと電話がありました。

最後なので、いつも気になっていたので、どうしていつも何時ですかとかけてきたのですかと聞きました。わたしの仕事が最後なので教えてほしいと言いました。

男は、わたしは教会の鐘をならす仕事をしていて、いつもちょうど12時にならさなければならない。それで、毎日5分前に、時間を確かめるために、今何時かと聞いてきたというのです。

交換手はえっと思いました。なぜかと言うと、交換手は、12時の教会の鐘に、時計をいつも確かめて合わせていたからです。

交換手の返事が正確な時間と思っていたのは、教会の鐘をならしていた男です。教会の鐘の時刻が、正確と思っていた交換手です。

聖餐式は、聖書に記された、主イエスがこのように行いなさいとの言葉に基づいた行いを基準にしています。教会が聞いて行ってきました。

聖餐はその行ってきた記念です。ここに主イエスが言葉と霊とをもって臨んでくださる、満たしてくださるのです。

主イエスが中心におられることを基準に、教会は聞いてきたのです。

ルカによる福音書の主の晩餐は過越の食事でもありました。

19節と20節の二か所に、パンと杯の主イエスのお言葉が詳しく書いてあります。

19節と20節です。それからイエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き使徒たちに言われた。これはあなたがたのために与えられるわたしの体である。そして、わたしの記念としてこのように行いなさいと言われました。

これはわたしの体であると主イエスは言いました。

人は、生まれたとき、体をもって地上に生まれ、体を持って人は生きます。

主イエスは体を裂いて、十字架に死に、陰府に降りました。陰府に降り、体をもって復活された主イエス・キリストが、これがわたしの体、パンであると言うのです。

主イエスは、パンを裂いて、小さくして与えられました。

ルカによる福音書と使徒言行録は、聖餐をパン裂きと言っています。

主イエスご自身が、小さくなって、わたしたちに与えられます。主イエスの十字架に至るご生涯が、ご自分を小さくするご生涯だからです。

主イエスは、わたしの記念としてこのように行いなさいと言われました。

記念は、アナムネーシスという言葉です。思い起こすということ、すなわち、忘れないようにという意味です。

主イエスは、わたしたちのために、十字架の上で、ご自分の体を裂いて、ご自分が最も小さくなられ、恥となって、その体を与えられました。

その体を与えて、わたしたちの罪を赦そうとした記念です。このことを思い起こしなさい、忘れないように、このようにしなさいというのです。

杯も体と同じです。杯は体から流された血をあらわします。

わたしの血による新しい契約であると主イエスは言われました。

過越のとき、小羊の犠牲の血によって、イスラエルの家だけが救われました。旧約の出エジプトの古い契約が書き換えられるのです。

この主イエスの血が流されたのが、新しい契約となったのです。

レビ記17章です。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。

この古い契約が新しい契約に変えられました。

神の子主イエス・キリストの血が流されました。血による新しい契約の始まりです。

レビ記の言い方に従えば、わたしたちの命は、主イエスの流された血の中にあります。

神さまが、血をあなたたちに与えたのは、十字架という祭壇の上で、あなたたちの命の贖うためであるというのです。血はその中の命によって贖いをするのです。

今日もパンと杯にあずかって、そして、求心力から遠心力が生まれ、わたしたちは宣教に押し出されるのです。

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