2020年9月6日(日)聖霊降臨節第15主日 宣教要旨

ヨハネによる福音書8章31~38節

「真理はあなたがたを自由にする」

8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。

8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

真理はあなたがたを自由にするという主イエスのお言葉です。

 主イエスのお言葉を聞いたのは、西暦1世紀のユダヤ人です。どうして自分たちを自由にするというのかと反論しました。わたしたちは自由だ、誰の奴隷になったことも無いというのです。

ユダヤ人の歴史は、国は自由であったためしがありませんでした。不自由な国だったのです。

ダビデ・ソロモン時代、イスラエル統一王国時代は、比較的、数十年、独立していた時代でした。しかし、ほとんどの時代は、ユダヤは、周囲の大国の属国でした。

主イエスの時代も、ユダヤは、ローマ帝国の支配下、属国でした。

ところが、主イエスの言葉に反論するかのように、自分たちは自由だ、誰の奴隷になったこともないと言ったのです。

「すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

アブラハムの子孫であるとは、自分たちは神の民、選びの民であるという、プライドをあらわしたものでした。

しかし、主イエスは、あなたたちは自由でないので、自由にすると言ったのです。ユダヤ人は、自由だと思っているが、実は自由でなかったと言ったのです。

自由の状態、自由の構造の問題です。自分は自由でないとわからなければ、自由にはなれません。自由ということの根本を、主イエスはここで問うているのです。

真理はわたしたちを自由にするという言葉が、国立国会図書館の正面、入り口に掲げられています。日本語で、真理はわたしたちを自由にすると書かれています。

国立国会図書館の設立にかかわった羽仁五郎氏が、ドイツのフライブルク大学の図書館に書かれている言葉をまねたといわれます。

主イエスの言葉は、真理はあなたがたを自由にする、ですが、国会図書館は、真理はわたしたちを自由にする、となっています。

 聖書の言葉も書かれています。それは、聖書の通り、あなたがたを自由にすると、ギリシア語で書かれています。日本語は、明らかに書き換えられたものです。学問の真理、科学や一般の真理が、わたしたちを自由にすると考えたものと思われます。

主イエスの言われた自由は、特別な意味がありました。

主イエスが言われた自由は、ふたつの側面があります。ひとつは、何々からの自由です。わたしたちも自由になりたいものです。それらは、ほとんどは、何々からの自由です。

わたしたちは、何かに捕われているからです。束縛、奴隷からの自由のことです。そこから抜け出るしかありません。しかし、わたしたちは、この、何々からの自由しか考えてはいないのではないでしょうか。

もうひとつの自由は、何々からでなく、何々への自由です。

ヨハネによる福音書は、ユダヤ人への福音書です。

エジプトを出たイスラエルは、エジプトからの自由を得ました。そのイスラエルには、目的がありました。何々からの自由ではなく、荒野の先に示された、約束の地カナンへの自由でした。

聖書の自由には、ふたつの側面があります。何々からの自由と、もうひとつの自由の側面、何々への自由があったのです。

わたしたちは、何々からの自由はたくさん持っていますが、何々への自由は、持っていないのではないでしょうか。抜け出る自由はわかっても、向かう自由、目的がある自由がないのです。

エジプトからの自由、捕われからの自由は得ました。しかし、抜け出ても、人は荒野の旅を続けます。その向こうにある自由を得るためです。

人は生きる目的があります。聖書は、主イエスは、真理はあなたがたを自由にすると言われたのです。

「すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

自由のひとつ目の側面、主イエスが自由にするのは、罪の奴隷からの自由、罪からの解放のことです。そして、それだけでは自由ではありません。約束の地、神の子に至る自由があるというのです。

エジプトを出たイスラエルは、約束の地カナンに向かいます。その同じ旅路を、わたしたちの人生も歩むのです。わたしたちのエジプト、誰もが持っている、エジプトという罪があります。そこから抜け出て、荒野の旅を続けます。そして、約束の地へ、自由への旅をするわけです。

主イエスは、その十字架をもって、わたしたちを罪から自由にしてくださいました。罪の無い人はいません。その罪を、十字架で赦してくださったのです。

それでも、わたしたちは荒野を旅します。罪から救われた自由の旅は、約束の国カナンに向かいます。復活への自由の旅が示されているのです。

真理とは真実、嘘偽りがないとうことです。

結論めいたことですが、ここ、ヨハネによる福音書が真理というのは、キリストのことです。キリストのご生涯、救いの御業、神さまがキリストを遣わされて示されたこと、神さまのお心である御子イエス・キリストが真理です。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネによる福音書1章14節)

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(ヨハネによる福音書1章17節)

ヨハネによる福音書には、20箇所ほど、「真理」という言葉が出てきます。14章6節、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

主イエスがご自分のことを真理と言っている箇所があります。18章、ピラトの裁判で、主イエスは、「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言いました。「真理とは何か。」

神さまの真理、真実は、ひとことで言うと、キリストご自身のことであり、その御業のことです。

真理であるキリストがわたしたちを自由にします。罪を犯して罪の奴隷になっているわたしたちが、キリストによって、子があなたがたを自由にすると、キリストがわたしたちを罪から解き放たれます。罪の奴隷であるわたしたちを解放してくださいます。

そして、キリストが、わたしたちを、自由へと、約束の地へ導いてくださるのです。

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