2021年8月15日(日)聖霊降臨節第13主日 宣教要旨

マタイによる福音書13章24~30節

「毒麦のたとえ」

13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。

13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

人生にはいろいろと難しい問題があります。その解決のためには、ある程度の時間は待ってみる必要があります。待つことができるという力がなければならないわけです。

問題の解決には待ってみることが必要です。置いておいておくことです。置いておくことで、問題が解けてくるといいます。

忍耐といってよいかもしれません。

現代人は待つことができなくなりました。待ちわびる、待ち焦がれるという経験が少なくなりました。物でも情報でも何でも手に入る時代です。欲しいと思えば、何ヶ月も何年も待たなければならないということがありません。

ですから、反面、待つことができなくなったのです。

すなわち、忍耐ができないのです。ですから、忍耐することを学ばなければならないのでありましょう。

人は、ある時間は待ってみなければなりません。待つことができるという力を持たねばなりません。

難しい問題はなかなか解けません。そのまま残ることがあります。しかし、ある程度の時間そのままにしておくこと、待つことが解決への力となります。自然と解けることがあるのです。

そのように、人は、問題の解決ができない時、もう少し待ってみようと、経験のなかで学んできました。

誰もが、一番解けなかった問題があるのではないでしょう。治ることがないこととか、解き方のわからない問題があります。

しかし、解けない問題は、ある時間待たなければなりません。待つことの積み重ねが、きれいに問題が解けてきたという経験を人はしてきたのです。

待つことが大事です。主イエスの、毒麦のたとえ話です。

良い麦をまいたつもりなのに、毒麦がでてきました。

ご主人様、どうしましょうか。

解決方法は、待ってみることでした。両方とも育つままにしなさい。

待つこと以上に、最後まで神さまに信頼すること、良い麦の収穫があるとの答えです。

毒麦というのは、小麦畑に見られる、麦とよく似た麦のことです。毒性があって、食べると、しびれ、嘔吐、下痢などを起こします。

イスラエルでは知られた、別種の麦でした。

最初のうち、なかなか良い麦とは見分けがつきません。穂が出て、成長とともに見分けがつきやすくなります。

たとえは、畑に、人々が眠っているあいだに、敵がきて毒麦をまいていきました。

毒麦がでると始末にわるいものです。イスラエルでは、麦畑に、復讐のために毒麦をまく人がいました。いやがらせです。

小さいうちには見分けがつきにくく、見分けがつくころに、穂が、種が落ちるのです。

また、根がからみます。良い麦と悪い麦の根がからんでしまうのです。毒麦だけを抜き集めようとすると、良い麦も抜いてしまうことになります。

いつのまにか毒麦がでています。敵の仕業です。そして、毒麦だけは引き抜きにくいのです。

主イエス自身のたとえの説明が、36節からあります。

良い種をまくものは人の子、すなわち主イエスです。

畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。

毒麦をまいた敵は悪魔、刈り入れは終わりのときのことです。

わたしたちの世界という畑に、悪魔が、悪い者の子らが毒麦をまいています。

この毒麦はなくなりません。

完全でないわたしたち人間、世界に、毒麦があふれます。

人類の歴史は戦争の歴史でありました。

奴隷社会は、戦争で負けた奴隷によって成立しました。

奴隷の人生は人生であったのでしょうか。一方には王がいて、一方には敗者の奴隷がいたのです。

人類の歴史は矛盾の歴史です。毒麦の仕業と思わざるを得ない歴史です。

世界は良い麦の畑なのでしょうか。毒麦の畑のように思われるのです。

主イエスの毒麦のたとえは、教会という畑の反映です。教会も毒麦の畑だというのです。

最初から、教会の中にも争いがありました。教会が、救われた民であるにもかかわらず、そこにあらがうものがいたのです。

教会は、毒麦と共存して、厳しく鍛えられて成長していったのです。それが、この世に立つ教会の基本的な性格でした。

さて、毒麦が出てきましたという、主イエスのたとえの答え、解決方法は、そのままに両方育つままにしておきなさい。終わりのときに処分されるからというのです。

ルカによる福音書に、不正な管理人のたとえという、理解しにくいたとえ話があります。

不正にまみれた富で友だちをつくりなさい。たとえ悪いことでも見逃してやりなさい。最後には、正しい者が報われるというのです。

両方とも育つままにしておきなさいと、主イエスは言われました。これが、わたしたちには理解できないこと、受け入れられないことではないでしょうか。

わたしたちは待てないのです。わたしたちの経験のなさです。

すでに答えがあります。それは、主イエスの十字架です。

わたしたちも毒麦なのです。

神さまを本当に信頼できない、待てない毒麦なのです。

主イエスの十字架は、終わりの先取りです。

世界の不完全さ、人間の不完全さを、この愚かさや弱さを、主イエスは十字架にすでに背負われました。ここに救いがあります。

わたしたちの最高の贈り物はなんでしょうか。

人間は何を残せばいいのでしょうか。お金でしょうか、財産でしょういか。それは考えさせられる問題です。

神さまの最高の贈り物は、聖書にしるされている御子イエス・キリストの十字架の死です。ここに、わたしたちの救いのすべてがあります。

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