2022年1月30日(日)降誕節第6主日 宣教要旨

マルコによる福音書1章40~45節

「重い皮膚病をいやす」

1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」

1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

41節です。「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい 清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」と書いています。

「深く憐れんで」と書いています。重い皮膚病で、誰からも顧みられなかった男ですが、主イエスは、この男に、言いしれぬ同情を示しました。

ここに「深く憐れむ」と記されている元の言葉は、興味深い言葉です。元々は、人の内臓、はらわたを意味する言葉です。腹に痛みを覚えることです。それで、古い聖書には「はらわた痛む」とも訳されていました。他者への同情のために心を痛める、いや身体まで、腹まで痛みを覚える、それほど深く、自分自身のように他者を思うということでありました。

ところが、実はここを、「イエスはお怒りになって」と記している聖書があります。古い聖書の写本、写しの中に、憐れむという言葉ではなくて、怒るという言葉に置き換えられているものが少なからずあるのです。

そして、そのほうが元々の言葉ではなかったと考える聖書の研究者も少なくないのです。

その説によりますと、主イエスは重い皮膚病の人を見て、その人を捉え、あるいは取り囲んでいるもの、それは悪しきものですが、それに対して憤りを覚え、お怒りになった、戦われたということになります。

当時、主イエスの時代には、重い皮膚病は特殊な病気でした。それは、一つの重い病気であるとともに、それ以上に、神ののろいとか、宗教的な汚れにかかわることと見られていました。

ですから、聖書も、病気が「直る」という言い方をしないで、「清くなる」、「清められる」という言い方をしています。

そして、それは最悪の病でした。重い皮膚病と訳されていますが、元の言葉は「うろこ」、魚のうろこです。「うろこ」から来ているそうです。皮膚がくさって、いたるところが「うろこ」のようにはがれ落ちていく、それで重い皮膚病にかかった者は、生ける死者、死に捉えられている人、あるいは、「死の初子」、死へと向かうために産まれた最初の子と呼ばれたと言われています。

この病は、癒されることはほとんどありませんでした。

当時のユダヤ教の文献によりますと、重い皮膚病が治るというのは、死んだ人間が甦るのと同じぐらい難しいことだと書かれていたというのです。

彼らは、汚れた者、神にのろわれた者ですから、考えられないほどひどい差別を人々から受けていました。

当時の社会を律する規定は、「モーセ律法」という掟にあります。旧約聖書のレビ紀13章に次のように書かれています。

「重い皮膚病にかかっている患者は衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この病状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」

当時、重い皮膚病の人は、ここに書かれていますように、決して、皆と一緒に町の中に住むことはできませんでした。家族からも切り離され、町の外で、荒野や砂漠の洞窟にひとり暮らすことを余儀なくされていたのです。

町の外で、人々から残り物をもらって生活しなければならないという、非常に悲惨な状況におかれていたのです。

エルサレムの町ですと、周囲は、東西南北高い城壁に囲まれていたのですが、その中に一歩でも入ることはできませんし、入ってくれば石を投げて追い出す、そういう状況にありました。

ですから、彼らの不幸は、単に、当時、治療が困難だとされていた病気にかかったというところにあるだけではなく、ユダヤ社会がその病気に与えた、いわばその社会的な意味によって疎外されていたというところにありました。そして、その意味を作り出していたのは、宗教的な掟にほかならなかったわけです。

この世界には差別ということがあります。それはけっして消えることがない、差別を無くせ無くせと叫びながらも、片方では別の差別を生み出してしまいます。逆差別などという言葉もありますが、差別というものは無くならないのです。

なぜ人は人を差別するのでしょうか。

昔の聖書の時代の人たちは、重い皮膚病の人を、自分たちの世界から隔絶し、触れないようにしました。まともに出会うことのないようにしたと言うのです。

しかし、主イエスは、この人を捉えている病、そしてこの人を遠ざけてしまう人間をお怒りになり、そして深く憐れみ、手を差し伸べてその人に触れて、「よろしい、清くなれ」と言われたのでした。

手を差し伸べてその人に触れたというのは、聞き逃してはならない大切な言葉です。

深い憐れみが、手を差し伸べるという行為となってあらわれている、そう理解することができます。

ある人がこんなことを言っています。「触れるということは、主イエスにとって、この男を徹底して受けとめるということを意味したのではないだろうか。癒しの力がこの男の中に入り込む、そしてそれは逆に、悪の力を、いわば自分に全部吸収しつくし、相手から奪い取ってしまうことも意味した。重い皮膚病の人と同じ苦しみを自らも引き受けることによって、かえってお癒しになるのだ。」

マタイによる福音書の8章に、同じ出来事が記されています。その締めくくりのように、イザヤ書53章の言葉を引用して、ここにその言葉が成就したと説明しています。その言葉というのは、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」という、あの苦難の僕の歌です。

さて、主イエスは、「すぐに立ち去らせようとし、厳しく注意して、だれにも何も話さないように気をつけなさい、ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて人々に証明しなさい」と命じて、この男を行かせました。

先ほど読みましたレビ記13章には、重い皮膚病が治った場合には、祭司に体を見せて、そして証明書をもらってからでなければ、町に入ることはできないというふうに書かれています。

それで主イエスはこの人に、その当時の掟にしたがって、祭司に体を見せにいって、それで治ったという証明書をもらって、家族のところに帰りなさいと、そう言ったので。

しかし45節に、こう書かれています。「しかし彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ言い広め始めた。」

誰にも話してはならない、そう厳しく戒められているのに、そしてやっと町に戻れる、社会に復帰でき、家族のもとに戻れるのに、彼はそうしないで、自分の身に起こった出来事を人々に告げ言い広め始めたというのです。

大きな喜びがこの人にあふれているので、主イエスの言葉に背いているのですが、しかし、彼は、そうせざるをえなかったところに、この人の喜びが表現されていると言えましょう。

その結果、主イエスは公然と町に入ることができなくなり、町の外の人のいない所に留まらざるを得なかったのです。

実は、この人は名前も記されていないのですが、今日の箇所、マルコによる福音書によりますと、主イエスのことを宣べ伝えるようになった最初の人であります。

「大いにこの出来事を人々に告げ」とあります。「告げる」と訳されていますが、「宣べ伝える」という言葉です。後に教会は、福音を伝えるようになりますが、その福音を伝えること、宣教という言葉です。

また注意深く調べて見ますと、「この出来事」と訳されているのは、「言葉」、ギリシャ語でロゴスという文字が使われています。聖書の中で印象深い大切な単語の一つです。「神の言葉」とか、「主の戒め」、「神の約束」という意味で用いられています

マルコによる福音書においても何度か出てきますが、「神の言葉」、あるいは「主の言葉」という意味で用いられていることが圧倒的に多いようです。

かえって「出来事」という意味で用いられるのは極めてまれなことです。

そうだとすれば、ここでは、「彼は大いに神の言葉を宣べ伝えた」と訳しても良いのかも知れません。

彼は自分の身に起こった出来事を伝えたのです。そしてその出来事の中に、神の恵み深い言葉、主のお言葉を聞き取っており、その言葉を伝えた、そう理解することができます。

マルコによる福音書は、さらに言葉を重ねて「言い広め始めた」と記しています。

「言い広める」というのは、実は、この言葉も珍しい言葉です。人々の間を縫うようにしてあちこちに言い伝えるということです。会う人会う人に話す、その言葉は人々の間に広まっていくのです。

喜ばしい言葉、神の言葉、福音をこの人は伝えたのであります。無名の人ですが、最初に福音を伝えた人でありました。

重い皮膚病を患っていた人は、人と人との間に、大いなる出来事、ことばを告げ言い広めました。

彼は、高い壁に立ちふさがれて、人の交わりから疎外されていた人です。人が自分について語ることば、のろったりさげすんだり、無理解な言葉をどれほど聞いて来たことでしょうか。

しかし、彼は大いに語り伝え、言い広めたのであります。人々の間を縫うようにしてあちこちに伝え、会う人会う人に話したのでありましょう。

今日の聖書箇所の最後の言葉です。人々は四方からイエスのところに集まって来たと記されています。

この人を癒し、この人に届いた言葉を、この人も心の底から語り伝え、心の底からの言葉が人の心の底に届くのだと、信じることができたのだと思います。

祈祷

天の父なる御神さま、過ぐる1週間を、罪の赦しと復活と、主の再臨の信仰に歩ませていただきました。感謝をいたします。

今日1月の第4番目の日曜日、礼拝堂に集められ、御名を崇める幸いに感謝をいたします。

主イエスが深く憐れんでくださり、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われ、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなったとのお話を聞きました。

わたしたちを憐れんでくださる恵みを覚え、また、この恵みを言い広めることができますように、わたしたちを導いてください。

御神さま、礼拝に集うことのできない兄弟姉妹方を覚えます。高齢の方や介護の内にある方、病気や病床にある兄弟姉妹方、ウイルスの不安にある兄弟姉妹、被災地にある兄弟姉妹を覚えます。

神さまの癒しと慰めと、励ましが、おひとりおひとりに差し伸べられますように。

御神さま、この1週間も、わたしたちをお恵みとお守りとの内に導いてください。肉体的にも、精神的にも、霊的にも、わたしたちの健康を守ってください。

時同じくして守られております諸教会の日曜日の礼拝を、同じように祝福してください。

感謝と願いとを、わたしたちの主イエス・キリストの御名によってみ前にお祈りいたします。アーメン。

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