マルコによる福音書10章13~16節
「子供を祝福する」
10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
主イエスは、子供たちをわたしのところに来させなさいと言われました。
子供は、幼な子と書かれているものもあります。子供は、偉い、大きいという言葉の反対語です。小さいということです。
子供は、今では大事にされます。しかし、当時の子供は、イスラエルでもどこの国でも、まっとうに扱われませんでした。文字通り小さい者でした。イメージとしては、邪魔者扱いされたのです。
子供は、社会的にも、政治的な立場など、もちろんありませんでした。家庭でも邪魔者にされ、取るにたらない存在であったのです。
今日の聖書、マルコによる福音書の子供は、パイドンといって、12歳ぐらいまでの子供のことです。幼児も含まれます。
主イエスは、この子供たちを祝福されました。
神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできないと言われました。
問題意識は、神の国に入るということです。そして、条件を付けました。子供のような者が、無価値な者が、無条件に神の国に招かれているというのです。
お話の最初です。人々が、触れていただくために子供たちを主イエスのところに連れて来ました。
当時、子供を高名なラビのところに連れて行くこと、触れていただくこと、手を置いてもらい、祝福をいただくことは良くあったことです。
主イエスという、評判の先生が来ているというので、子供を連れてきたのです。
ところが、弟子たちはこの人々を叱りました。
ここには、なぜ弟子たちが、主イエスのところに子供を連れてきた人々を叱ったのかは書いていません。
想像です。忙しい主イエスの伝道旅行です。心に罪を負った人々や、病気の人、悪霊に取りつかれた人、たくさんの人たちが主イエスのところに来ていました。
神の国が来たと、教えを宣べ伝える主イエスです。主イエスの伝道に、子供などを、また連れて来る者がいる。来ないでほしいと弟子たちは思ったのでありましょう。
当時の子供は、邪魔者、小さな存在、無価値な存在のイメージと話しました。
五千人の給食、四千人の給食、パンの増加の奇跡の報告があります。恵みにあずかったのは、それは男だけでした。女の人も数に入っていません。まして、子供は、なおさら、数に入れなかったのです。
弟子たちは、子供を祝福してほしいと連れて来た人たちに、主イエスに、余計な時間を使わないでほしいと思ったでありましょう。
構っていられないということです。
弟子たちは、人々を叱りました。主イエスはこれを見て、憤られたと書いてあります。
主イエスが憤られたのはめずらしいことです。ヨハネによる福音書の11章、ラザロが墓に葬られた様子を見て、憤られたとあります。
主イエスが、悪霊に対して憤られたこともあります。
弟子たちが、子供を連れて来た人々を叱ったので、弟子たちの態度に、主イエスが憤られたというのです。
反対に、主イエスは弟子たちを叱りつけました。
弟子たちに向かって、主イエスは言われました。
子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
来させなさい。来ることを許しなさい。妨げてはならないというのです。
神の国は、このような者たち、子供たちのものであるというのです。
はっきり言っておくとは、本当に言いますという言葉です。
子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
ここには、神の国に入るという問題意識があると話しました。子供のように神の国を受けいれる人になる。それが神の国を受け入れる人になるというのです。
子供のように、純真で、無垢な人が神の国に入るのではありません。子供のように、罪人である人が、神の国を受け入れる人になるということです。
ただ、聖書は、子供のようであることを、決してほめられたことではないと書きます。
パウロの書いたコリントの信徒への手紙一です。兄弟たち、ものの判断については子供となってはいけません。悪事については子供となり、ものの判断については大人になってください。
エフェソの信徒への手紙です。未熟ではいけない。成熟した人間になりなさい。成長しなさい。
子供は罪人です。聖書は、子供であることを賞賛しません。大人になりなさいというのです。
その子供を、主イエスは、子供を受け入れなさい。来させなさいと言われたのです。
主イエスの言葉に、貧しい人々は幸いであるというのがあります。神の国は、子供たちのような者たちのものであると同じ意味と思います。
実際に主イエスは、子供を受け入れ、抱き上げ、祝福されました。
聖書は、であるということ、存在を肯定します。
こうしなければならない。何々をしなければならないということではありません。
聖書は、主イエスは、わたしたちを何よりも認めています。わたしたちは子供です。未成熟な、無価値な邪魔者です。
それでいい、そのままでいいと言っているのではないでしょうか。
わたしたちは、存在しているという恵みにあるのです。
存在そのものの恵みを、この自分のままを、神さまは愛してくださっているのです。
罪人が赦され、救われています。そのことだけを教会は語ればいいのではないでしょうか。
聖書は、わたしたちが救われた事実を第一にします。
子供であるわたしたちが、罪びとが受け入れられ、祝福されているのです。
そして、わたしたちは、神さまの御用に、神さまの目的のために用いられているのです。
このことが、主イエスが子供を祝福されたという意味と思います。