2022年10月30日(日)降誕前第8主日 宗教改革記念日礼拝 宣教要旨

ルカによる福音書11章33~36節

「体のともし火は目」

11:33 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。11:34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。

11:35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。11:36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

わたしたちの教会の信仰は、キリストの十字架に罪赦されたということにあります。

教会に十字架が建てられ、礼拝堂のキリストの十字架を仰いで、わたしたちは礼拝をささげます。十字架に罪が赦されたからです。行いによるのではなく、ただキリストの十字架の恵みによって、わたしたちは罪を赦されたのです。

内村鑑三に、十字架教という言葉があります。

キリスト教は根本的に十字架の宗教である。それはただキリストの宗教を意味するのではない。十字架につけられたまいしキリストの宗教を意味するのである。

それは我々に彼のように十字架につけられろと教えるのではない。彼が我々のために十字架につけられたことを教えるのである。

この十字架はただ単にキリスト教のシンボルであるのではない。むしろ十字架はキリスト教の中心であり、すべてがその上に建てられるべき隅の親石なのである。

十字架の上で起こった出来事を受け入れて信じるという状態に至り、約束された十字架の恵みを身に受けて、罪は赦され罪は完全に滅ぼされたのである。

まったく十字架なくしてキリスト教なしである。現在までキリスト教ではないものがキリスト教として受け入れられてきた。例えば慈善事業、道徳を説く伝道、西洋的思考などである。

このため我々は、キリスト教を新しい名前で呼ぶことが望まれる。私は「十字架教」をその一例として挙げよう。

長い文章を引用しました。宗教改革の契機となった事柄は、十字架、すなわち、罪の赦しの再発見です。

このように、キリスト教の本質が罪の赦し、キリストの十字架にあるのです。わたしたちは、それを信じ、伝えていくのです。あなたの罪は、十字架の上で赦されたと。

聖書は、体のともし火は目という主イエスのお言葉です。

ともし火をともして、それを穴蔵の中や升の下に置く者はいません。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置きます。

夜、暗い道を歩いたことがあるでしょうか。今は、都会は街灯があって、真っ暗というところは少ないでしょう。

しかし、暗い道があります。山道など、木立の中や、暗さに暗さが増すような道があります。

そのとき、ぽっと民家のあかりが見えると、小屋のあかりでも、道に迷ったのではないかという不安が、ぽっと取り払われる、明るい気分になります。

神の国につながる道を、わたしたちは探し求め、分け入って歩きます。わたしたちのために、神さまはともし火をともされ、光りが見えるように、蜀台の上に置かれたと主イエスは言われたのです。

このともし火は、主イエスのことです。夜の闇の中に生まれ、来られた主イエスご自身のことです。

また、ある人の文章です。「聖なる時としての夜の回復」という文章です。

夜は宗教的な時として、祈りの時、礼拝の時として、聖なる時としての夜を回復しなければならない。

今日(こんにち)わたしどもは夜をどう過ごしているでしょうか。教会生活を含めて夜がどうなっているか。昼も夜も区別なく動いている。それが今日の社会です。

夜も昼と同じように喧噪の中に過ごしています。夜を失ってしまっているのではないか。しかし、夜は元々、宗教的な聖なる時であるのです。

夜は一方で暗闇の時です。人間が恐怖や不安に襲われる時です。しかしまた他方、この夜は、昼間の喧噪を離れた静寂の時であって、人間はその沈黙の中に自分を取りもどし、憩いと平安を感じ取るのです。

ことに夜は、人間の昼の意識がほぐれ、人間の意志の力や活動的な力がゆるんで、それだけ一層、不安の脅かしにさらされる時であるけれども、同時に、またその不安の中でこそ、それを克服する超越的な力に一層胸を開く時であるのです。

この夜こそ宗教的な時である。こう記して、この人は、夜の経験としての祈りと礼拝の生活を取り戻すことを勧めているのです。

夜に、わたしたちは宗教的な経験をします。それは夜、昼夜の夜とかぎったことではありません。暗闇、大きな試練、そうことも含めて、夜の経験を誰もがもっているのです。

その夜に、燭台の上にともし火を置くのです。その夜に、宗教的な聖なる夜に、聖なる経験をわたしたちはするのです。そのともし火、光を、主イエス・キリストを見上げるのです。

神さまは、暗闇のわたしたちを導くために、光を、ともし火を、すなわち、主イエス・キリストを置かれたのです。

独り子は、救いの御業をなしとげられました。

内村鑑三のキリスト教は、十字架教であると紹介しました。十字架は真昼の出来事ですが、深い闇の時です。その時全地は暗くなったと聖書は記します。

そして主イエスは、まだ暗い、夜があけきらぬ時に復活しました。復活は光です。闇の中に光が輝いたのです。

わたしたちは、主イエス・キリストを闇夜の光として仰いで礼拝を守っています。

神さまは光を隠さず燭台の上に置かれました。

34節から36節の短いたとえです。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいればあなたの全身が明るいが、濁っていれば体も暗い。だからあなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうどともし火がその輝きであなたを照らすときのように全身は輝いている。

燭台の上に置かれたともし火を、わたしたちが主イエス・キリストを見る目のことをたとえたものです。

肉眼で見えるとか見えないではなく、霊的な目、澄んでいるか濁っていないかを言われたものです。

澄んでいるというのは、聖書の言葉で、単純である とか、複雑な影を持たないという意味です。

まっすぐに見つめる目、幼子のように素直に見る目、素直な目が澄んでいるというのがわかりやすいと思います。

主イエスは、ものごとを素直に、まじりけがなく、心をくもらせることなく、正しく見なさいと言われました。

ありのままに見るとはどういうことでしょうか。たとえば、自分の都合や利益で、人は自分をどうみているかを気にして見たりして、人間は複雑にものを考えるものです。

複雑に考えると、ある時には疑心暗鬼に、ことを複雑に見ると、目がくもっていることはよくあることです。

目が澄んでいればあなたの全身が明るい。だからあなたの中にある光が消えていないか調べなさい。

あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうどともし火がその輝きであなたを照らすときのように全身は輝いているのです。

目から光が入ります。それは体全体に差し込んでくるのです。

体だけでなく、わたしたちの生活すべてのことに、霊的な澄んだ目から光が、キリストが入ってくるのです。

神さまはともし火をともし、キリストを燭台の上に置かれたのです。

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