マタイによる福音書28章11~15節
「都での出来事」
28:11 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。
28:12 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、28:13 言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。28:14 もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」
28:15 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。
マタイによる福音書によると、キリストの死を疑う人がいたようです。
キリストのご復活の事実を番兵から伝え聞いた祭司長たち、長老たちは、墓を見張っていた番兵に多額の金を与え、寝ている間に、弟子たちが死体を盗んでいったというように、話を作ります。
寝ていたということは、心配しなくともいいということです。うまく総督も説得するからというのです。
そもそも、主イエスの墓に番兵を置いたのはどういうことだったのでしょうか。
埋葬の次の日、土曜日になって、祭司長たちやファリサイ派の人たちは、ピラトの所に集まり、主イエスが生きていたとき、自分は三日目に復活すると言っていたことを思い出しました。
三日目、すなわち日曜日まで墓を見張ろうと、ピラトに見張るように命じてくださいと言い寄ったのです。
弟子たちが、主イエスの死体を盗みだし、死者の中から復活しただなど言いふらし始め、民衆がまた惑わされることを案じたのでした。
ピラトは番兵をつけるように命じ、墓に封をして番兵をおきました。
番兵は、後で眠り込んでいたところ、弟子たちが死体を盗んでいったというように、お金で言いふくめられるのです。
そして、復活の朝です。
女たちが墓に着いたとき、大きな地震が起こり、墓の封をしていた大きな石がわきに転がり、天使がその上に座りました。番兵たちは恐ろしさのあまり、ふるえあがり死人のようになったのです。
番兵は主イエスが復活したとは、復活ということは理解できなかったのではないでしょうか。墓が空であることと、見張っていたにもかかわらず、主イエスの体がないことに、驚いたと思うのです。
女たちも、ともかく驚きました。墓が空で、主の天使があの方は復活なさった、見てみなさいと言うのです。驚いたが、喜び急いで走り、弟子たちに知らせに行ったのです。
弟子たちも半信半疑です。主イエスが言われていたとおり、十字架に死に三日目に復活するという言葉を思い出したのです。
祭司長や民の長老たち、ファリサイ派の律法学者たちは、主イエスの復活を信じません。問題にしないばかりか、番兵に金を与えて、民衆が惑わないようにしました。
祭司長たち、ユダヤの指導者階級の人たちは、とにかく復活したなどと言いふられてはこまるのです。
パウロの手紙に、500人以上の兄弟たちに主イエスは現れたこと、また、福音書に、エルサレムで、ガリラヤで、復活の主に出会ったことが記されています。
主のご復活の事実です。ご復活の主との出会いが、後の宣教の原動力となります。出会いがなければ、キリスト教の宣教の進展はなかったでありましょう。
お読みしませんでしたが、16節からです。
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
17節です。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいたとあります。
弟子たちの姿があります。ひれ伏したというのは、礼拝したということです。しかし、そこに疑う者もいたというのです。
わたくたちは、この17節の言葉にどうしても心が留まります。11人の弟子たちの中にも脱落者が出る可能性があったのです。
しかし、この17節の言葉は、次のようにも翻訳することが可能です。そしてイエスに会い礼拝した、その彼らは疑ってもいたということです。
弟子たちの中には信じている者もいたけれども、信じられない者たちもいたというのではなくて、彼らは皆、主を礼拝する。しかし、同時に疑いを抱く者たちでもあった、そのように理解することもできるのです。
これは、一つには伝道へと遣わされる弟子たちは、みな立派な非のうちどころのない者たちだったというのではなく、主イエスは、弟子たちが立派になったから、相応しい者となったから、今あらためて彼らをお選びになり、お遣わしになるということではなかったということです。
福音書を読みますと、弟子たちというのは、そそっかしい者、人よりも偉くなりたいと思っている愚かな者、なんど同じことを言われても、主のお言葉を理解できない者、そんな弟子たちの姿があります。
主イエスは、エルサレムへと向かい、わたしたちの贖いのために十字架におかかりになりました。その何よりも肝心な時に、弟子たちは主を離れて、逃げて行ってしまうような人たちだったのです。
そして、主のご復活の後も、弟子たちは弱さをまとっている、愚かさを携えている、不信仰という影がつきまとっているのです。
心細さを感じる弟子たち、頼りになりそうもない弟子たち、しかしこのような弟子たちを、復活の主はガリラヤに再びお集めになり、お遣わしになったのです。