マタイによる福音書6章22~24節
「体のともし火は目」
6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
主イエスは、体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗いと言われました。目を見れば、その人がわかるというのです。
「澄んでいる」という聖書の言葉は、単純であるということです。あるいは、複数の影を持たないという意味があります。
澄んでいるというのは、まっすぐに見る、幼な子のように、素直に見る目のことです。
複数の影を持たない目というのは、ふたつのものを一度に見ない目ということです。
ただひとつのものを、ひたすら見ることができる目というのが、澄んだ目ということです。
見るのは、キリストの光によります。見る光源、光のみなもとがキリストの光ということです。
逆に、複眼のように、いろいろなものを同時に見ている目は、いろいろな角度からものごとを見なければならない目です。
主イエスが、目が澄んでいればと言ったのは、霊的な目のことでありましょう。複眼ではなく、一点をまっすぐに見なければならないのです。
霊的な光、ともし火であるイエス・キリストを消してはいけないということです。
体のともし火は目という主イエスの言葉をもう少し説明すると、目を通して、光は体に入ります。目を通して、光は体から出て行きます。キリストの光は、目を通してわたしたちの体の中に入ってきて、キリストの光は、わたしたちの体から目を通して出て行くのです。
複眼的な生き方は、どういうものでも価値を失います。
キリストが、炭火のようなともし火であっても、わたしたちに差しこみ、その光に、光るのでなければ、すべては暗くなってしまうのでしょう。
続いて主イエスが言われた24節です。体のともし火は目の、続きの説明です。
目が、霊的な窓です。窓は開いていなければなりません。キリストの体をつくるからです。
建物の窓は、大きさと向きで、その明るさ、暗さが変わってしまうのです。
24節の主イエスの言葉は、光を入れる方角、ともし火をともす向き、光源のことです。
誰もふたりの主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるかのどちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
霊的な目は、霊的な窓の向きは、複眼でなく、単眼です。目がどちらを向いているか、だれに仕えるか、自分の主人はだれかということです。
ふたりの主人が、わたしたちにはあります。選ぶことが出来ます。それは、神と富です。
ここの、主人というのは、妻の夫のことではなく、当時、奴隷が主人に仕える、主従関係の主人のことです。
ふたりの主人の一方が富です。
富は、マモンという言葉です。マモンは、富、お金のことです。
奴隷は、おそらく、奴隷市場という、奴隷が売り買いされる場所がありました。富、マモンという主人が、わたしたちを買って、自分の所有物としたのです。
その富の奴隷であったわたしたちを、神さまは、ご自分の所有物を、不自由で、罪にあったわたしたちを、マモンから買い取るために、贖い金、見受け金を、ご自分の独り子主イエス・キリストを十字架にかけてまで、わたしたちを贖い取ってくださったのではないでしょうか。
キリストは、十字架につけられ、三日目に、墓を空にして、神さまは、キリストを復活させました。キリストを引き上げ、新しい命の光となさったのです。
富の奴隷であったわたしたちを、さらに、神さまの奴隷にして、自由にしてくださったのです。
体のともし火は目です。入口、出口は、キリストそのものです。
神と富、ふたりの主人に仕えることはできません。あなたがたは、だれの奴隷か、神さまの奴隷かと問うのです。
ふたつの教えですが、実際には、奴隷は主人の所有物で、自由がないのですが、実際には、パレスチナの奴隷には、二種類、暗い奴隷と明るい奴隷がいたのです。
暗い奴隷は、主人が悪く、奴隷をたたいたり、命すら気にかけない主人の奴隷でした。
一方、明るい奴隷がいました。主人が良く、奴隷に妻を娶らせたり、その子どもたちに、主人の財産を分け与える奴隷の主人がいたのです。
時には、主人の跡取りに奴隷がなったこともありました。
旧約聖書に、イスラエルの奴隷は、7年に1回、奴隷の身分から解放される決まりがありました。
すると、どうなるかというと、悪い主人の奴隷であったものは、解放され、うれしくてしようがありません。一方、良い主人の奴隷は、この主人の奴隷であるほうがいいので、一定の手続きをとって、主人の奴隷のままでいたそうです。
霊的な、澄んだ目をもって主イエス・キリストを仰ぐ者は、自分自身に光を招き入れるだけではなくて、貧しい弱い自分ではありますが、不思議な仕方で主イエスを指し示す光として輝きます。わたしたちを照らしていてくださる光です。
主イエス・キリストは、神の国を訪ねて、そこに入って行こうとする者たちのために、神さまはともし火をともし、これを燭台の上に置かれたのです。
その光を、澄んだ目で見て、日々を歩みたいものです。