マタイによる福音書19章13~15節
「子供を祝福する」
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
19:15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
聖書は、主イエスが、子供たちを祝福されたというお話です。
天の国は、このような者たちのものである。子供たち、幼子のようになれる人が天の国を継ぎます。子供のようになることが、天の国に入る秘訣というお話です。
人々が、子供たちを主イエスのところに連れてこようとしました。
弟子たちは、この人たちを叱るのですが、逆に、弟子たちを主イエスは叱ったのです。子供たちを連れてきなさい。しりぞけてはならない、来ることを妨げてはならないと言われたのです。
弟子たちの、そういう弱いものをさげすむような態度、そのことを主イエスは問題にしたのでした。
当時のユダヤでは、子供は、乳幼児から12才の者です。彼らは、じゃまもの扱いされました。社会的にも、政治的な立場などももちろんありませんでした。家庭でも、取るにたらない存在であったのです。
子供は、障がい者、女性、老人のように、弱い立場にある人のように、かえりみられない存在だったのです。
子供は、幼な子と書かれているものもあります。子供は、小さいということです。
このように、子供は、聖書では、弱い立場の人の代名詞でありました。
マルコによる福音書とルカによる福音書の平行記事では、弟子たちが、子供たちをじゃまにし、主イエスの近くに来させないようにしたとあります。
お話は、人々が、主イエスにふれていただくために、子供たちを主イエスのところ連れてきました。
当時、子供を、高名なラビのところに連れて行って、ふれていただく、手をおいてもらうことで祝福をいただくことが、よくあったようです。
主イエスという、評判の先生がきているというので、子供を連れてきたのでありましょう。
ところが、弟子たちはこの人々を叱りました。
忙しい、主イエスの伝道旅行です。心に罪を負った人々や、病気の人、悪霊にとりつかれた人々、たくさんの人が主イエスのところに来ていました。
教えを宣べる主イエスの伝道に、子供など、迷惑と思ったのでありましょう。
その様子を見て、主イエスはいきどおられたのです。主イエスがいきどおる、めずらしい個所です。それほど、弟子たちを叱りつけた様子がわかります。
ただ、自分たちは大人、強い、そういう高慢がうちくだかれなければなりません。
しかし、本当に、子供のようになれる人が天の国に入る、救われるのでしょうか。
聖書は、子供のようであることは、決してほめられたことではないと記します。
パウロの記したコリントの信徒への手紙一です。兄弟たち、ものの判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、ものの判断については大人になってくださいと記されています。
エフェソの信徒への手紙です。未熟ではいけない。成熟した人間になりなさい。成長しなさいと記されています。
聖書は、子供であることを決して賞賛しません。大人になりなさいと言います。
いつまでも子供のような大人ではいけないと記します。わがままで、反省するということがない、自己中心的な、幼児のような大人こそ、困った大人だからです。
主イエスが叱ったのは、その大人にある思い上がりです。子供たちをしりぞけようする態度でした。逆に、子供を受け入れなさい、来させなさいと言われたのです。
大人には幻影があります。
人間は、自分が築き上げたものに、いつまでも価値があると思っています。
一世を風靡した人も、その人が死んだとたんに、誰もその人を忘れてしまうのです。巨匠もそういうもので、いつの時代も、新しい、若い、次の世代の人がもてはやされ、流行するのです。
人間の業績は栄枯盛衰です。絶対ではありません。どこにでも、大人の思い上がりがあるのです。
大人は、自分たちは強い、確かに子供よりは強いのです。あるときは力でねじふせることができます。しかし、それが、天の国から離れることになるのではないでしょうか。
ある先生が言いました。大人の教会は、幼子を来させなさい。子供たち、弱い立場の人たち、無価値な人々を、来させなさい。子供たちを受けいれなさい。それが大人の教会ですと。
天の国は子供たちのものです。
わたしたちも神さまの子供です。
主イエスの言葉に、貧しい人々は幸いであるとあります。天の国は子供たちのような者たちのものであると、同じ意味だと思います。
わたしたちは、子供であることをみ直し、子供たちを受け入れます。
実際に主イエスは、子供を受け入れ、手をおいて祝福されました。
聖書は、であるということ、存在そのものを肯定します。こうしなければならない、何々しなければならないというのではありません。
聖書は、主イエスは、わたしたちを、何よりも認めています。
わたしたちは、子供です。未成熟な、無価値な、じゃまものの子供です。そして、それでいい、そのままでいいと言っているのではないでしょうか。わたしたちは、存在しているという恵みにあるからです。
わたしたちはこの世に生まれました。そういう、存在そのものの恵みがあるのではないでしょうか。この、そのままの自分を、神さまは愛してくださっているのです。
わたしたち罪人は、赦され救われています。そのことだけがわかればいいのではないでしょうか。
聖書は、人生論ではありません。人生、いかに生くべきかは、皆、知っています。
聖書は、救われた事実を第一に大事にします。
子供であるわたしたちが受け入れられ、祝福されているのです。
わたしたちは、子供であることを見直し、子供たちを受け入れなればなりません。
子供たちを来させなさいとの主イエスの言葉に聞いて、日々を歩みたいと思います。