マルコによる福音書3章1~6節
「安息日の主」
3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
安息日は、休日であり、神さまを礼拝する日です。旧約聖書を正典とする宗教は、七日に一日はお休みという一週間に一日のお休みは、神さまのご配慮によるのです
安息日の律法の一番有名な箇所は、出エジプト記の20章です。モーセの十戒の第4戒、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」です。
実際には、この安息日の律法は、何箇所かに出てきます。もともと、モーセの時代に与えられた戒めが、その後長い年月を経てできたためです。
もっとも素朴な最初の安息日律法は、同じ出エジプト記の23章の個所です。「あなたは六日の間あなたの仕事を行い、七日目には仕事を止めねばならない。それはあなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」
なんとも和やかな戒め、心なごむ戒めではないでしょうか。人も動物も六日の間は一生懸命働き、七日目には仕事を休みなさいというのです。
次に古い時代の編集は、申命記の5章、十戒の個所の安息日の律法です。「安息日を守ってこれを聖別せよ」です。
「六日の間働いて、何であれあなたの仕事し、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」
「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。主は安息日を守るよう命じられたのである。
申命記は、王国時代の編集です。紀元前7、8世紀のものです。
安息日本来の意味は、奴隷たちも一日は休むようにというものでした。それが、だんだん人間のお休みから神さまの安息にならうということになっていったのです。
バビロン捕囚は紀元前6世紀です。このころ十戒がまとまっていたことがわかります。
もうひとつ遅い時代の律法は、出エジプト記31章の安息日律法です。「あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。」
この時代の安息日律法は、安息日に仕事をすると死罪にするという、厳しい戒めになりました。
出エジプト記と申命記、4箇所の安息日律法を見てみました。時代とともに、だんだんとその意味内容が変わってきたことが分かります。
安息日は、仕事をしないことは同じです。もともと、安息日本来のものは、弱い立場の人、奴隷、家畜は休むようにと、人間の休みがうたわれていたのです。
しかし、時代とともに、本来の意図が後退し、人間を裁く基準となっていったのです。
安息日律法にかぎらず、律法が掟として、特別の意味を持つようになったのは理由があります。直接には、紀元前第6世紀のバビロン捕囚です。バビロニアにおもだった指導者がとらわれの身を経験します。住む土地を、王を、神殿を、いっさいを奪われた状態で、たよりになるのは神さましかいないのです。
十戒は、おそらくバビロン捕囚のさいに奪われたか、破壊されたのでありましょう。残るのは、覚えている神さまの言葉だけだったのです。
主イエスが、安息日に、会堂で片手のなえた人をいやしたという話です。
その前に、安息日に弟子たちが麦の穂を摘みました。ファリサイ派の人たちが、安息日にしてはならないことをしていると、主イエスに言い寄ります。
麦の穂を摘むことは仕事でした。片手のなえたひとをいやすことも、医者の仕事でした。当時、律法違反になったのです。
問題は、仕事そのものではありません。安息日であることが大問題でした。
片手のなえた人のいやしですが、いやしも、生命にかかわらないいやしは禁止されていました。片手の不自由な人は困っていたにちがいないのですが、いやしは、今日でなければならないということではなかったのです。
しかし、主イエスは、彼を真中に立たせ言いました。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことかと問うたのです。
光景は、じっと様子を伺っているファリサイ派の人たちです。彼らは、反論ができないのです。そして、手をのばすといやされたというのです。
ファリサイ派の人々と、ヘロデ派の人々が、主イエスを殺害しようと相談しはじめます。自分たちの考えを、安息日に仕事をしてはならないという律法を、ずっと守ってきたからです。律法違反と思ったのでありましょう。
しかし、主イエスの安息日のいやしこそ、律法本来の精神でありました。神さまのお考えを、主イエスは、改めて示したのです。主イエスのいやしは善、命を救うからです。
日曜日は、キリスト教の安息日です。単なる休みではありません。神さまの日、神さまのための日です。
休んで礼拝する日です。疲れをいやし、神さまに憩い、神さまとともに休むのです。讃美と御言葉の聴従の日です。安息日の根底に、主イエスの赦しと復活があるからです。