ルカによる福音書12章4~7節
「神がお忘れになることはない」
12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。12:5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。12:6 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
教会に来ておられた、この一年に亡くなられた教会員、また教会につらなるご家族を覚えて、永眠者記念日の礼拝を守っています。
わたしたちは故人を覚えています。それぞれのご生涯を通して示された神さまの恵みに感謝し、わたしたちも神さまを信じて歩みます。
今日の聖書は、神さまは、すべての人を覚えておられるという話です。
わたしたちも故人を覚えています。神さまは、いつまでも覚えているのです。
雀の生き死にでさえ神さまは覚えておられます。まして、人ひとりを、その髪の毛までも覚えていてくださるのです。
神さまの権威は、全知全能です。神さまのふところにわたしたちはいます。生きているときも、召されるときも、召されたときも、神かみさまのもとにあるのです。
星野富弘さんに「いのち」という詩があります。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。
「いのち」より大切なものは何でしょうか。星野さんは首から下がマヒする障害を負いました。「いのち」より大切なものを、聖書に出会って答えを見つけたといいます。
「いのち」より大切なものなどないという人もいると思います。いえ、あると思う人もいると思います。さあ何でしょうか。考えてみてくださいというのです。
星野さんは答えてはいませんが、いのちより大切なものは、神さまのもとにあるいのちだと思います。この地上のいのちをこえる永遠の命、神さまと共にあるいのちがあるのです。
今日の聖書箇所は、恐るべき者という見出しです。
友人であるあなたがたに言っておく。体を殺してでも、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。誰を恐れるべきかを教えよう。それは殺した後で地獄に投げ込む権威をもっている方だ。そうだ言っておく。この方を恐れなさい。
前後の文脈から、弟子たちにせまるであろう迫害が背景にあります。その時、本当に恐れるのは人間ではない。神さまは、わたしたちの肉体のみならず、魂までも滅ぼす力をもっている。この方を恐れなさいというのです。
この恐るべき方に出会った人がいます。宗教改革者のマルチン・ルターです。
ルターは、改革者となる前、アウグスチヌス会に所属する修道士でした。ルターは修道士になる前、身近に死と向き合う体験をしました。
エルフルト大学の法学部の学生であった時、同級生のヒエロヌムス・ブンツという学生が、急性肋膜炎で亡くなるという出来事です。試験の最中の出来事でした。ルターは、初めて人間の死ということに真剣に出会ったといいます。
さらに同じ年、雷雨の中、落雷の危険にさらされました。自分の死の恐怖を感じたというのです。それを機会に、法律の勉強から神学部に代え、修道士になるのです。
恐るべき方についての深刻な出会いがあります。地上の法廷で、人は罪の故の死という罰を受けます。そして、天上の法廷で、人は、神さまの裁きの前に立たされるのです。人は、地獄に投げ込む権威を持っておられる方、その方を恐れることを知らなければなりません。
主イエスはさらに言います。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
マタイによる福音書では、二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。ルカによる福音書では、五羽で二アサリオンです。
聖書を研究する人たちは、マタイとルカにだけある話を、どちらにもあって他の2つの福音書にはない話を研究しています。
これは、マタイとルカが共通の資料をもとに、それぞれが書いたにちがいない。お互いを参考にしたのでもない。その文言から、お互いを知っていて、また見て書いたのではない。つまり、共通の資料があって用いたでであろうと推測します。このマタイとルカが用いた共通の資料をQ資料といいます。
恐るべき者という話は、主イエスの言葉が書き留められた話です。主イエスの思い出を、主イエスに実際接して、主イエスに従った人が、主イエスのことを忘れられずに、主イエスの言葉を後々まで伝えたいために書いた話のひとつでありましょう。
その価値のない雀の命の、一羽でも神さまはお忘れになることはありません。どんな小さな命も神さまは覚えていてくださるのです。
命は、神さまの御手のうちにあるのではないか。そのことがわかるかというのです。
それどころかあなたがたは雀よりもまさっている。その髪の毛まで一本残らず数えられているというのです。
数えるとは、聖書では、覚えているという意味になります。また、数えることは、大事にしているということになります。
詩編90編です。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれてあなたの憤りをも知ることでしょう。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
このように、詩人は、生涯の日を正しく数えることを教えて下さいと、神さまの威光を仰ぐことができますようにと祈ります。
神さまを恐れることができますように。すなわち、神さまがわたしたちを覚えていてくださるという信仰の歌なのです。
雀一羽でさえ神さまはお忘れになるようなことはありません。ましてわたしたち人は、神さまが愛され造られた存在です。その命をお忘れになるようなことは決してないのです。
恐るべき方を恐れよ。いやどんなことも恐れることはないというのです。
創世記8章です。地に暴虐が満ち、洪水により、ノアの家族以外すべての生き物が水に飲まれてしまいました。
ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
ローマの信徒への手紙3章です。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
雲のように信仰の証人がいます。信じる者たちは価なくして、神さまがご自分の義を立てて下さった御子キリストの十字架の死によって、信じる者を救ってくださったのです。
神さまは、独り子を十字架につけて、わたしたちを愛してくださいました。その主イエスが、あなたたちは覚えられている。神さまは、あなたたちをお忘れになるようなことはないというのです。