2023年1月8日(日)降誕節第3主日 宣教要旨

ルカによる福音書3章15~22節

「メシアを待ち望む」

3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。

3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

3:18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

3:19 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、3:20 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。 3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

洗礼者ヨハネという人は、たいへん優れた人だったようです。人々は、彼がメシア、救主だと思いました。

 しかし、ヨハネ自身は人々に告げました。 「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。

ヨハネは、自分は僕にすぎない、仕える者であると言い表したのです。

 当時、お客の足を洗うのは、その家に仕える奴隷の仕事でした。土にまみれた履物のひもを解き、汚れた足を洗いました。

 おそらく、ヨルダン川のヨハネのもとに集まってきた人々が、洗礼を受けるために川に入る準備をしている。履物のひもを解いて、それを脱いでいる。そういう光景を見て、「履物のひもを解く」という言葉が、ヨハネの口から出たのかもしれません。

 自分は僕である。しかし、その「値打ちもない」とは、いかにも謙遜な言葉です。

 そして、ヨハネは、自分の後に来られる方が、何をなさるのかを告げました。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊と火で洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場をすみずみまできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 聖霊と火、これは風と火とも読めます。

 聖霊、風と火、それらは神さまの力強い臨在のシンボルです。そして、まことの裁きと、まことの救いのしるしでありました。

 小麦を収穫すると、農夫は、脱穀し、風のある日に、それを一つの入れ物から別の入れ物へと注ぎ入れました。あるいはまた、シャベルのようなもので小麦を投げ上げて風を入れたと言われます。そうすると、麦の実と籾殻とが綺麗に分けられるのです。

 籾殻は焼かれます。すさまじい燃え方をするのだそうです。一方、麦は喜びのうちに、倉に収められました。

 後においでになる方は、神さまが共におられ、聖霊と火とによって洗礼をお授けになり、まことの裁きと救い行われるとヨハネは告げたのです。

 ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの伝道の記事を、彼が捕らえられ、獄に繋がれたという出来事を短く伝えて締めくくっています。

 その地方の領主であったヘロデ・アンティパスに捕らえられたのでした。

 このヨハネのもとで、不思議なことに、主イエスは洗礼をお受けになりました。

 ルカによる福音書は短く、このように記しています。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に下ってきた。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という声が、天から聞こえた。」

 主イエスがヨハネから洗礼をお受けになったということを聞くと、不思議な思いになります。「わたしよりも優れた方、その方の履物のひもを解く値打もない」と言ったのはヨハネでした。その立場が逆転しているように見えるからです。

 確かに、不思議なことです。ヨハネは罪人を招きました。終わりの時が近づいたから、悔い改めるようにと呼びかけていたのです。人々は罪を悔いてヨハネから洗礼を受けました。その民衆の中に、主イエスのお姿があり、主イエスもまた、ヨハネから洗礼をお受けになったのです。

 主イエスは、他の人々と同じ様に、罪を犯したので悔い改めの洗礼を必要としていたのでしょうか。そうではありません。

ペテロ手紙一2章22節には、「この方は罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」と記されています。しかし、罪のないお方が、罪の赦し、悔い改めの洗礼を受けたのです。これは、不可解な、腑に落ちないことのように思われます。

 しかし、これには、深い意味がありました。この不思議さの中に、主イエスの力が表されたのです。それは、罪のないお方なのに、ご自分を罪人の立場まで低くし、わたしたちとまったく同じ立場に立ってくださったということです。

 主イエスが低くなられたということは、その誕生から始まっていました。貧しい羊飼いたちが、その知らせを聞きました。東の学者たちは、世界を救い、治めるであろう王さまを、貧しい家畜小屋の中に見いだしました。

 フィリピの信徒への手紙2章には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と記されています。

 主イエスの低さは、その誕生に始まるのです。そして、それは、生涯の終わりに頂点に達します。

 ルカによる福音書12章50節には、「わたしには受けねばならない洗礼がある」と言われた主イエスのお言葉が記されています。十字架に向かって歩みゆかれる、その道で、お語りになった言葉です。ヨルダン川の受洗は、十字架へと一直線に結ばれていたのです。

 受難のメシアの道は定まりました。

 主イエスはその場で祈りました。父なる神さまが何をせよと求めておられるのか、そのうながしを受け取っておられたのでありましょう。

 この主イエスの洗礼のことは、どの福音書も大切なこととして書き記されています。

 そして、ここでは、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に下ってきた。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という声が、天から聞こえた。」と伝えています。

 「天が開け」とは神さまが行動を起こされたということを伝える言葉です。「聖霊が鳩のように下る」とは、神さまが聖霊を注がれたということです。

 それは、昔、預言者たちが預言していたことであります。イザヤ書11章に、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」と書かれています。イスラエルを救う一人の王が現れる、その王の上に神さまの霊が留まるといって、キリストを預言した言葉です。この預言の言葉のように主イエスに聖霊が臨んだのでした。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」との言葉は、王として即位させる言葉です。昔、イスラエルでは王さまの即位の時には、神さまの言葉として、「わたしの心に適う者」と告げられたといわれています。

 「わたしの心に適う者」とは、聖なる神さまのご意志、その目的を成就する者という意味です。

 しかも、ここでは、「愛する子」と呼ばれているように、神さまの独り子であるお方、神さまがもっとも愛しておられる御子を、今、神さまが王として特別な務めにつかせられたというのです。

 主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになって、低くなられた、その出来事が、実は、神さまが主イエスを救主として、王としてその務めにつかせられた出来事だったと、福音書は伝えているのです。

 主イエスお一人が低くなられた時、父なる神さまは喜び、聖霊が主イエスに注がれたのでした。

 ヘブライ人への手紙4章15節に次のような言葉が記されています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

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