ルカによる福音書9章10~17節
「五千人に食べ物を与える」
9:10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
9:11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
9:12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
9:13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
9:14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
9:15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。9:16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。9:17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
男だけで五千人、女性も含めればどれだけの人々がいたのでしょうか。五つのパンと二匹の魚をもって、主イエスはこれらの人々を養われたという物語です。
主イエスはいろいろな不思議なことをなさいました。他のことに比べて、この奇跡物語は、一般にも良く知られているのではないかと思います。
実は聖書は、パンの奇跡を一番多く記しています。4つの福音書があります。主イエスのご生涯がそれぞれ書かれています。奇跡物語の中で4つの福音書全てに記されているのは、パンの奇跡だけです。しかも、福音書は4つしかないのに、6カ所に書かれているのです。聖書自身が、このパンの奇跡をことさら多く記録しているわけです。
それはなぜでしょうか。印象深い大変大切な出来事であったということでしょう。そしてしかも、最初の教会が、このパンの奇跡の物語を大変愛して、喜んで繰り返し読んでいたという証拠でもあります。
ある人が、最初の教会がこの物語を愛して、繰り返し読んでいただろうということを、次のようなことを言っています。
「初代教会の歴史において、パンの奇跡のようなことが引き続き起こったというような記録はない。そんなことは繰り返されなかった。パンは決して増えない。しかし、この物語をこよなく愛したのです。」
主イエスの言葉や振る舞いを思い起こして、それを語り伝え、ついには聖書という形に結晶させた初代教会の歩みは、平穏無事ではなくて、しばしば激しい迫害を経験するような歩みでた。ですから、欠乏、貧しさといつも付き合っていたのです。
弟子たちの手元にはパン五つと魚二匹しかなかった、取るに足らないものしか無かったと書かれています。同じような貧しさが、教会の姿でした。食べるものに困ったということもあったでしょう、それどころか肉体の命さえ奪われたのです。
それでは、このパンの奇跡は何を語っているのでしょうか。
それは、第一には、主イエスとはどういうお方であるかということに対する答を示しているということです。
前節、9節です。ヘロデは「いったい何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」と言ったと書かれています。また、パンの奇跡のすぐ後では、主イエスは弟子たちに向かって「わたしを何者だと思っているか」と質問したという記事が書かれています。
すなわち、この出来事は、主イエスはどういうお方であるかという問に囲まれているのです。
ですから、パンの奇跡は主イエスがご自分で、わたしはこういう者であるとお示しになった出来事なのです。
どういう方だと言っているのでしょうか。それは、王さまだということです。
地上の王さまの資格は、その国の国民の胃袋を何よりも満たすということでしょう。経済を維持、発展させる、それが王さまと言えましょう。王さまの、国の代表者の課題であり、資格です。
主イエスは王さまであることをお示しになりました。ただの王さまではありません。ヘロデのような地上の王さまではありません。天地を創られた神さまのご支配、神さまの国の王さまです。
そういう王さまのことを、聖書はメシア、キリストと呼んでいます。そして、昔昔、モーセとか、エリヤの後継者エリシャという預言者とかが、パンの奇跡で人々を養ったという故事があって、新約聖書の時代には、パンの奇跡をなさるのはまことのメシア、キリストであるしるしと信じられていたのです。
主イエスはパンの奇跡をなさって、ご自分が神さまの国の王さまであることをお示しになったのです。王さまがおられるのですから、そこには神さまの国が建てられているのです。神さまの恵み深いご支配が開かれたのです。
それが、この物語が語る第一のことです。
さて聖書の物語は、「五千人の給食」と呼ばれています。14節に、「男が五千人ほどいたからである」と書かれているところから、そう呼ばれます。
五つのパンと二匹の魚が、主イエスの手によって裂かれて、弟子たちの手に渡され、そして配られました。すると、そのわずかなパンと魚が、五千人もの人々を養い、皆が食べて満ち足りるだけではなくて、残りのものを集めると、十二の籠にもなるほどであったというのです。
9章のはじめです。主イエスが、弟子たちを伝道にお遣わしになったということが記されていました。何も持たせずに、お遣わしになりました。
その伝道から帰って来た弟子たちです。ここでは使徒たちと書かれています。遣わされた者たちという意味です。その弟子たちに備えられていたもの、弟子たちを待っていたもの、それは、思いがけない、このような主イエスの食事でした。この物語が伝える、大切なメッセージです。
弟子たちは、自分たちの働き、自分たちの教えてきたこと、それを全部、自分たちの手の中に持ち続けて、主イエスのもとに帰ってきました。
しかし、今、自分たちがなしてきたこと、教えてきたことをすべて、主イエスに報告しました。それらを自分の手から引き離すことができる、主イエスに委ねることができたということです。
弟子たちは、その食事を必要としている者として、第一に招かれて、これに与るべき者です。不思議なことに、このことのために、主イエスのお働きの手となり、足ともなって仕えることになるのです。主イエスの憐れみは、そのようにして、すべての人に分かち合われたのです。
ヨハネによる福音書では、弟子たちがそこに見いだした五つのパンと二匹の魚は、小さな子どもが自分のために持っていたお弁当で、それを弟子たちに差し出しのだ、ということが伝えられています。
まことに小さなささげものです。それ自体では何の足しにもなりません。しかし、それが主イエスによって用いられて、食事の奇跡が行われたのです。
弟子たちの目からすれば、何もないようなものです。彼らの手の中を調べても、ほとんど何も見いだせないようなものです。しかし、主イエスは、わずかなものを備えておられ、そのわずかなものを祝福して、これによって、豊かな恵みを表し、群衆をお養いになったのでした。
主イエス・キリストは、十字架におかかりになった時、十字架の上には罪状書きが書かれていました。それはユダヤ人の王、これが王だという罪状書きでした。
皮肉を込めて書かれたのです。主イエスを捕まえ、殺した人々が書きました。しかし、これが王だという嘲(あざけ)りは、実は真実を伝えてしまっていたのです。これは神さまがなさった喜ばしい皮肉ではなかったのではないでしょうか。
主イエスは、十字架におかかりになった時に、自分を十字架につけて、手に釘を打ち付け、自分の着ていたものを、くじ引きをして分けあっている者たちをご覧になりました。そして「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からないでいるのです」と言って、父なる神さまにとりなしの祈りをなさいました。ゆるしのために、罪のあがないのために、主イエスは十字架におかかりになりました。
パンを裂くお姿は、この十字架のお姿に結ばれています。パンを裂き、それをお配りになる時、主イエスは神さまのゆるしと祝福とをお与えになるのです。
あの時、数千人の人々は満ち足りたのです。パンでお腹がいっぱいになったということでしょう。神さまのゆるしと祝福とに満ち足りたというお話だと思います。