2021年5月16日(日)復活節第7主日 宣教要旨

マタイによる福音書6章16~18節

「断食するときには」

6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。

6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

聖書の、主イエスの断食についての教えです。

主イエスが言われた文脈の中心は、5章20節です。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

義とは、神さまの前での正しさのことです。

律法学者やファリサイ派の人々は、聖書を学び、神さまの教えを守ろうとしました。律法学者やファリサイ派の人々にまさる義をもたなければ、天の国に入れないと言われたのです。

断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。

偽善者は、人に見てもらおうとします。主イエスは、偽善者は人に見てもらおうと断食するのだというのです。すなわち、人の評価や評判を気にする人なのです。

人からほめてもらおうとする人なので、人の方に顔が向いている人なのです。すなわち、偽善者は、神さまの方に顔が向いていない人ということなのです。

そういう意味では、わたしたちは、皆、偽善者です。人の目を気にして、良いことをしたように、人に見てもらいたいとするのです。

断食は、文字通り、食を断つことです。ある期間、食事を取りません。また、ある種の食べ物を食べないということもありました。

断食をすると、当然、おなかがすきます。食べたいことを我慢するからです。つまり、断食は、苦行であり、悲しみや嘆きの表現となったのです。

悲しいとき、嘆きのとき、ものものどに通らないという経験をします。逆に、食べられない断食は、悲しみや嘆きの表現となったのです。

特に、ユダヤ人の断食は、罪とのかかわりで、嘆き、悲しみの表現となりました。自分は罪を犯した、神さまの前に罪を犯した、御心に背き、反対の道を歩んでしまったという、断食は表現となったのです。

諸宗教は、罪の悔改めの表現として、断食というかたちをとりました。

詩編51編です。ダビデがバト・シェバと通じたので、預言者ナタンが、批難のため、ダビデのもとに来ました。

ダビデは祈りました、神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。

すなわち、断食には、罪の悔い改めの意味があったのです。

しかし、それが偽善だと主イエスは言いました。

なぜ偽善かというと、わたしは罪人ですと、悔改めますと、人に見てもらおうとするからです。断食をしていることが、わからないといけないので、ここでは、顔を見苦しくしたのです。

断食は、空腹がともなうので、顔色が悪くなるものです。元気もなくなるものです。断食は、顔がみ苦しい、それらしい、苦しい顔つきになります。

そうなると、顔がみ苦しくする断食が、行為が意味をなくします。断食の、本来の、神さまの前に罪を犯したという悔改めが、どこかにいってしまうのです。人に見せるような、自分の断食を、人に誇るようなことになるからです。

偽善ですので、演技になってしまったのです。

偽善者は、役者という言葉です。本当の心と反対の表現が演じられたのです。

主イエスは、偽善者の断食は、それは、本当の断食ではないと言われました。彼らはすでにむくいを受けていると言われました。

主イエスは、神さまのむくいはどうなのかと問うたのです。

主イエスは、断食するならば、偽善者のようにではなく、顔を見苦しくするのではなく、反対に、きれいに、身づくろいをしなさいと言われました。頭に油をつけ、顔を洗いなさいと言われました。

見せるのではなく、あなたの断食が人にきづかれず、隠れたところにおられる、あなたの父に見ていただくのであるというのです。

隠れたことを見ておられる、あなたの父の報いがあるからだというのです。

身づくろいのことだけではありません。断食を隠すだけでなく、日々を喜び、悲しみではなく、嘆くのではなく、日々を感謝して生きなさいと言われたのではないでしょうか。

マタイによる福音書9章に、断食についての問答というのがあります。

そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

主イエスの弟子たちが、断食していないのは、今は婚礼の祝いの時、花婿は主イエスのことだからというのです。

主イエスがいてくださる人生は、わたしたちは、心の中で、 神さま、わたしたちは御前に罪をおかしましたと祈りつつ、いや、断食ではなく、それは、赦された、婚礼のような祝いの、喜びの日を生きているということだと思うのです。

主イエスが、わたしたちのために断食してくださったところがあります。

荒れ野の40日の誘惑で、主イエスは断食し、空腹をおぼえられたことがありました。

わたしたちの罪は残ります。

しかし、わたしたちのために、十字架に苦しまれた、神さまの独り子主イエスの断食で、わたしたちは救われたのです。

ですから、偽善者のようにではなく、断食していないようにしなさい。父なる神さまがむくいてくださいます。

新しい命に、新しい生き方があります。天国に行くようにつくられている生き方があると思うのです。

罪はあります。人は悲しみ、悩み、神さまに嘆きます。しかし、その罪を、主イエスが十字架に負ってくださいました。わたしたちには、罪赦された生き方があるということではないでしょうか。

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