ルカによる福音書19章28~38節
「エルサレムに迎えられる」
19:28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
19:29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、19:30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。19:31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
19:32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。19:33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
19:34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。19:35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。19:36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
19:37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。19:38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
今日は棕梠の主日です。主イエスとその一行がエルサレムに入城された日曜日です。
エルサレムの人々は、王を迎えるかのように主イエスを出迎えました。大勢の群集が自分の服を道に敷きました。
旧約聖書列王記下の9章です。イエフという若者が王になるとき、預言者エリシャの使いが、主はこう言われる。わたしはあなたに油を注ぎ、あなたをイスラエルの王にする。あなたはイスラエルの王になると主が言われたというのです。
家臣たちびっくりします。急いでおのおのの上着を脱ぎ、階段に敷いて、主君が、そのとき、アハブ王の一将軍であったイエフが王になられたと歓迎し、喜びをあらわしたのです。
上着をぬいで、その上を新しい王が歩かれる。敬意のあらわれです。礼をつくして王を迎えたのでした。
この習慣は、実はエルサレムの町では、イエフの故事に習い、いくども王を迎えました。それは立派な王もいたのですが、暴虐な王、異教の神さまを信じる王もいました。
主イエスは、そういう王の一人として、詩編118編にあるように、ダビデの子にホサナ、主の名によってこられる方に祝福があるように。いと高いきところにホサナ、王様万歳と、人々は出迎えたのでした。
主イエスは、王として、王以上の方として、王の中の王であられたのです。
この世の王は、盛者必衰のことわりとあるように、日が当たったり。陰ったりします。権力をふるう者、支配者が、いつもその地位にあるわけではありません。
わたしたちには、本当の王はいないのです。
主イエスのエルサレムに向かう際のお言葉です。あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子(主イエス)が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。
主イエスはわたしたちのところに王としてこられました。それはこの世の支配者のようではなく、権力をふるうようにではなく、仕えるために、皆の僕となるために来られたのです。
それは、わたしたちが考えているような王ではなかったのです。
紀元前6世紀、ユダヤの主だった指導者たちは、バビロンの地に捕えられました。第二イザヤという無名の預言者が予言しました。イザヤ書53章です。
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
苦難の僕の歌です。わたしたち、罪人を解放する方は、ほふり場に引かれて行く小羊のごとく、毛を切るものの前にものを言わない羊のよう捕えられ、裁かれ命を捕られたと。
神さまの独り子が裁かれました。主イエス・キリストは、王として君臨するためにエルサレムに入城されたのではなく、仕えるため、その命を、十字架に死ぬことによって、神さまの御心が、わたしたちへの愛が実現するためであったというのです。
主イエスを王として歓迎したのもわたしたち、十字架につけたのもわたしたち、救われたのもわたしたちであったのです。
主イエスのエルサレム入城は、勝つためではありませんでした。この世の王として君臨しようとするためではありませんでした。争うためでもありませんでした。
ゼカリヤ書9章です。娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。
エルサレムに王が来る。ろばに乗って、戦のためではなく、平和のために、その支配が海から海に、地の果てにまで及ぶためというのです。
あらゆる時代、人々は王を待ち望んでいました。本当の王は、戦いの王、戦の凱旋の王ではなく、平和の王、軍馬ではなくろばに乗って、ほふり場に引かれて行く小羊のごとく、過ぎ越しの犠牲の罪なき羊のごとく、エルサレムに迎えられたのです。
この方の十字架の死は、神さまに背いたすべての人の罪をその背に負われたのです。
わたしたちには理解できないように見えます。神さまが、ご自分の子を打たれることで、わたしたちを罪から、その罪の罰として与えられた死から、わたしたちを購いだすためであったのです。
安野光雅に、大きなものの好きな王さまという話があります。
大きな洗面器で顔を洗って、大きなタオルで顔をふいて、大きなチョコレートを食べて虫歯になったら、大きなペンチで歯を抜きます。そんな王さまの、大きな植木鉢に咲いたのは、小さなチューリップでした。
大きなものの好きな王さまが、いろんな物を作らせます。巨大なナイフ、巨大なフォーク、巨大なペンチ、などなど。そうして、ついに巨大な植木鉢を作らせます。そしてそこにチューリップの球根を植えます。それもたった一個。そしてさいたのは・・・普通のチューリップの花一輪。
大きなものの好きな王さまは、大きなベッドで目を覚ますと、プールのような洗面器で顔を洗い、庭のようなタオルで顔を拭きます。ごちそうを食べるときも、のこぎりより大きなナイフと一人では持てないくらいのフォークを使います。何でも大きなものが一番と思っている王さまは、ある時大きな植木鉢に、赤いチューリップの球根を植え、大きなチューリップの花が咲くのを待つのですが。「自然のものは自然のまま」という絵本の意図が子どもたちに伝わるかは別として、子どもって大きなものって大好きですから楽しんで読めると思いますよ。娘は「王さまだって小人みたい」って言ってましたね。
わたしたちは王になりたがります。しかし、自然のチューリップひとつ自由にすることはできません。
人の命は、神さまの愛に、御子の十字架の死に、罪と死が、死と命がつながるのです。
僕として来られた神の子、まことの王をお迎えします。
コリントの信徒への手紙二4章です。
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。