マルコによる福音書4章35~41節
「突風を静める主イエス」
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
昔から、教会は舟の中での礼拝をどこかでイメージしてきたのではないかと思います。
ヨーロッパの古い教会では、教会堂の信徒の人が座る席を、「身廊」と呼ぶとのことです。身体の身という字に廊下の廊という字を書きます。英語ではネイブと言います。ドイツ語ではシッフです。ドイツ語のシッフは英語では、シップです。つまり舟のことです。ネイブという英語も、もともとは舟を意味する言葉でした。教会の礼拝の席は舟の中なのです。そういう自覚をもって礼拝が守られてきたということでありましょう。
あるいは、舟のイメージを用いて、教会というのは、この世界においてどのような団体として存在しているのかということが説明されることがあります。
舟は、海の中に深く船体を沈めています。重い荷物を積みますと、海の中に沈む部分が多くなります。石油を運ぶタンカーなどは、油を一杯に積み込んで、海の上にはほんのわずかの部分しか姿を現しません。まるで海の上だけを見ていると、板きれが浮かんでいるようにさえ見えます。
そのように、舟は、その一部分を海の中に、そして、他の一部分を外に出して進みます。そこで、教会というのは、この世という海の中に隠れる部分がなければなりません。この世界とまったく没交渉などということがあってはなりません。しかし、同時に、海の上にその姿を現していなければなりません、この世界に埋没してしまってはなりません。海の上にあらわれている部分がなければならないのです。
あるいは、こういうこともあります。新約聖書の中に、あまり頻繁に登場するわけではありませんが、仕える、奉仕する、働くと訳される一つの言葉があります。
よく知られた箇所は、ルカによる福音書です。最初に、この福音書がどのように、そして、何の目的で書かれたかを記す短い序文があるのです。そこに、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々が、わたしに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと」いう言葉があります。
御言葉のために働いた人々、前の口語訳聖書では、「御言葉に仕えた」と訳されていました。
ここで働く、仕えると訳されている言葉は、舟と関わりがあります。文字通りに言い換えますと、「下で漕ぐ」、「船底でオールを漕ぐ」という文字です。
昔、大きな舟の船底では、奴隷たちが何人も並んで、大きなオールを漕いだのだそうです。そのことから、仕える、働くという意味の言葉が生まれてきたというのです。
ルカによる福音書は、御言葉に仕えること、主イエスの物語を綴るために働くこと、そのことを言い表す時、舟のイメージを持ったこの言葉を選んで用いました。
御言葉に仕える者たちの働きは、舟を進ませます。しかし、その者たちは舟によって運ばれているのです。舟の帆に吹き込む風が舟を運び、船底では御言葉に仕える者たちがオールを漕いでいます。そのオールを漕いでいる者たちは、その舟で運ばれていく者たちなのです。
今日の聖書の箇所に、主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われたとき、弟子たちは、主イエスを舟に乗せたまま漕ぎだした」と記されています。もしかしたら、主イエスを、その御言葉をお乗せして、持ち運ぶ弟子たちの務め、教会の働きというものが、ここに重ねられているのかも知れません。
今日の聖書の物語は、舟の上での出来事です。主イエスと弟子たちを乗せた舟が、ガリラヤ湖を渡っていると、突然、激しい突風に見舞われ、舟は今にも転覆しそうになりました。
ガリラヤ湖は、普段は静かな湖ですが、突然激しい嵐が襲うことがあるそうです。
それは、ガリラヤ湖の独特な地形のためだそうです。突風が引き起こされます。弟子たちはその嵐の事や、その恐ろしさを良く知っていたのでありましょう。
しかし、向こう岸に渡ろうと言った主イエスのお言葉に従って、夜の闇がもうすぐそこまで来ている夕方でありましたが、意気込んで、弟子たちは主イエスを舟にお乗せして、湖に漕ぎだして行きました。
案の定、嵐が襲ってきました。しかし、この日の嵐は、予想を超える激しいものでした。弟子たちは必死になって舟を操縦しようとしますが、それがかないません。力つき、恐れ惑い、慌てました。
しかし、その時、主イエスは、ともの方で安らかに寝ておられたのです。
弟子たちは主イエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。
ある人が、波と風を恐れ、慌てふためく弟子たちについて、こんなことを言っています。
その人は、主イエスは眠ってはおられなかったと。もちろん、少しも慌てるご様子ではなかったけれども、決して眠ってはおられなかった、目覚めておられたというのです。
しかし、聖書は、「眠っておられた」と記しています。それは、弟子たちの不信仰を映し出す言葉だというのです。弟子たちに信仰がなかったから、主イエスは眠っておられると思ってしまったのだというのです。だから、主イエスは彼らに言われました、「なぜ、そんなにこわがるのか。」と。
「風」や「波」が問題ではないのです。そうではなくて、問題は自分の中、教会の中に、不信仰の眠りが吹き込んできて、主イエスを眠らせる、主イエスが眠ったと思わせているのではないかというのです。
たしかにそうかもしれません。わたしたちは、主イエスがそこにおられるのに、まるでそこにおられないかのように、あわてふためいてしまうときがあります。そこに神さまがおられるのに、おられないかのごとくに慌てふためくのです。
いずれにしても、弟子たちは、自分たちに襲いかかった嵐は、非常に力の強い悪霊の仕業と感じたのではないでしょうか。自分たちのコントロールできる相手ではない、その力は自然の力をも凌駕するほどのもの、一切を破壊してしまうような力だと、そう感じ取ったのだと思うのです。
弟子たちは嵐に動揺し。彼らの信仰がいっそう動揺を大きくしました。そして、彼らに引き起こされている恐れと動揺が、主イエスにまで及ぶはずだと思いました。それで、慌てふためいて主イエスを起こそうとしているのです。
わたしたちが動揺するときに、主イエスも動揺されるのだと思ってしまいます。弟子たちは、主イエスに助けを求めているようですが、実は、その魂は深い虚無に服してしまっていたのです。
しかし、主イエスは、舟のとものほうで安らかに眠っておられました。それは、嵐に決して支配されることのない平安です。力に満ちた平安です。
主イエスは起きあがると、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われました。すると、風ややみ、すっかり凪になったと書かれています。
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」主イエスは弟子たちに信仰をお求めになります。
主イエスは、「向こう岸に行こう」と言われて、わたしたちを信仰から信仰へ、神の国の舟旅へと招いてくださいました。そして、わたしたちのために、わたしたちと共にいてくださるのです。
しかも、このお方はすでに、わたしたちの困難や困窮を良くご存じで、すべてのことに打ち勝っておられる方であります。
嵐の時、弟子たちは、慌てふためきました。弟子たちの信仰は、嵐にあって揺れ動き、まるで信仰がないかのようでありました。
しかし、そこには主イエスがおられました。弟子たちは不信仰ではありましたが、主イエスが共におられ、それゆえに、弟子たちはその主イエスの名を呼んだのでした。そして、主は弟子たちの不信仰をもお静めになりました。そして、わたしたちに舟を漕がせてくださいます。