2022年3月13日(日)復活前第5主日・受難節第2主日 宣教要旨

マルコによる福音書3章20~30節

「ベルゼブル論争」

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。

3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

ベルゼブル論争、主イエスの、悪霊を追い出す力はどこからのものかという論争です。

人間は悪霊にとりつかれます。悪霊はすみかを必要としています。人が弱い時、神さまから離れるとき、悪霊は住みこんでしまうのです。

身内の人たちは誤解して、あの男は気が変になっているという噂に振り回されます。

エルサレムからやってきた律法学者たちは、あの男はベルゼブルにとりつかれていると言うのです。

主イエスは、悪霊の頭、ベルゼブルの力によって、その手先である悪霊を追い出していると言うのです。

ベルゼブルとは悪霊の頭のことです。悪魔、サタンの別名として、当時言われていた言葉です。

また、ベルゼブルは、住まいの王という語源説があります。

ウイリアム・ゴールディングに、ベルゼブルという作品があります。そのあらすじです。

無人島に漂着した少年たちが、無人島で暮らしはじめます。果物の豊富な島で、食べることには欠くことがない生活をはじめます。

少年たちは、やがて役割を分担します。次にしたことは、リーダーを選ぶことでした。

最初は平穏でしたが、次第に、少年たちはグループに分かれ、グループにはリーダーが選ばれ、そして、そのグループは対立しはじめるのです。

そして、殺人がおきました。

この作品は、人間にひそむ、人間にすみつくベルゼブルの力を表したものです。悪魔的力が人間を支配し、人を悪い方に動かしていくのです。

聖書は、人間が罪人であることを記します。

創世記2章から4章です。すべての人に罪がはいりこんだ次第を記します。食べてはいけないと言われていた、園の中央にあった善悪を知る木の実を、サタンの化身である蛇が、アダムとエバに食べてごらん、食べるとおいしいと誘惑しました。

巧妙な誘惑に負け、エバが食べ、夫アダムも食べるのです。

罪とその罰としての死が人類に入り込みました。

その二人の子、兄カインの弟アベル殺しが起こります。その供え物が、弟の方が、神さまが喜んだからというのが理由でした。

人は、このようにして楽園を追われます。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙7章で、わたしは自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする。わたしの中に住んでいる罪がある。わたしは、望む善は行なわず、望まない悪を行なっていると言いまし。罪のもとにある現実を、現在進行形として告白したのです。

宗教改革者のマルチン・ルターは、書斎で聖書を読んでいるとき、悪霊をみつけて、インクのビンを投げたというエピソードがあります。

主イエスの時代、また、中世、宗教改革の時代のことです。今、悪魔とか悪霊とかを、リアルに考えるには無理な時代かもしれません。しかし、人を凶器にかりたてる力や、誘惑や、不気味な力はあなどれないのではないでしょうか。

人間には、悪魔的なことは例にことかきません。

ある人が、人間にかかったら、悪魔も逃げ出すと言いました。人が、人をすまいとして、悪霊はいるのではないでしょうか。

ベルゼブル論争ですが、主イエスは、そうでない、そうあってはならない。わたしは悪霊の力で悪霊を追い出しているのではないと言われました。聖霊によって追い出しているのだと言われました。

ところが、ファリサイ派の人たちは、これらの悪霊の追い出しは、悪霊の頭ベルゼブルによるのだと、いいがかりをつけたのです。その親分である悪魔の力で言うことをきいているのだと。

主イエスはたとえで反論します。自分についている悪霊が、それ以上に強い方が現れて、わたしという家に押し入ってきていただいて、この強い悪霊をしばってくれなければどうにも救われないのではないかというのです。

どうしてサタンがサタンを追い出せようか。国でも家でもうちわで争えば、国も家も成り立たない。うちわもめをしていては滅びてしまうのではないかと言うのです。

そうではなくて、主イエスの悪霊払いは、神の指、すなわち聖霊による、神さまの力によると反論したのです。

聖霊とは、神さまの霊、またその独り子キリストの霊のことです。神さまの生きて働かれる力のことです。

また、聖霊は息、風、目に見えない神さまの力です。実際に、人はこの力に生かされているのです。

主イエスは、このように、聖霊をあなどってはいけない、主イエスの悪霊払いを、悪霊によるのだなどと言ってはいけないと言ったのです。聖霊をけがしつづけてはいけないのです。

人間は弱い土の器ですので、上からの力をいただいて、助けてもらわなければなりません。

悪霊に住まわれたわたしたちをうばいとるかのように、わたしたちの主人は、主イエスが主人、住まいの主人なのです。住まいを開放してくださるのみならず、主イエスがわたしたちの家のご主人としてすまわれたのです。

主イエスが来られたのは赦すためでありました。わたしがきたのは正しい人を招くためではなく罪びとを招くためであると。

人は悪魔の支配化にあります。罪とその罰である死にしばられてしまったのです。悪霊の住まいとなった人間は、すべての人は罪人であって、自らの力では神の国にはいることができなくなってしまいました。

しかし、主イエスはわたしたたちを赦すため、神の国の門をひらくために、道となってくださった命の主です。

主イエスは、悪霊の支配からわたしたちをときはなつために十字架に死んでくださって、わたしたちを解放してくださいました。

自ら、家の主人としてわたしたちのうちに住まうようになられました。

命への道にみちびきいれられています。主イエスによって歩んでいるのです。

主の受難節、主の十字架をみつめ、あおぎみる時です。

神の国はあなたたちのところにすでにきているのです。

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