2021年4月25日(日)復活節第4主日 宣教要旨

マタイによる福音書6章1~4節

「施しをするときには」

6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

偽善者たちよ、人の前で善行をしないように、人に見てもらおうと、会堂や街角で施しをしないようにという主イエスのお言葉です。

何とも、わたしたちの行いは、人間的なものではないでしょうか。主イエスが言われるように、人に見せるための行いなのです。

隠れたことを見ておられる父なる神さまに、顔向けできるのでしょうか。

わたしたちも、偽善者の仲間だと思うのです。

主イエスは言われました。会堂で、街角で、人の集まるところ、人の目の前で施すなと。

偽善者は、人前で、自分の施しを見せようとします。ささげることが悪いのではなく、ささげ方のことです。

主イエスは、施すときには、人に見られるためではなく、父なる神さまに知れるのがよいと言われました。

マタイによる福音書の6章全体は、三つの善行、施し、祈り、断食に言及します。どれも、人の前でしてはいけないというのです。

そして、6章の最後に、だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分であるとの、慰めに満ちた言葉でしめくくられるのです。

色々なことで思い悩み、心をくだいても、人はどれほどのことができるのでしょうか。思い悩むことはありません。神さまがすべてご存知だからです。神さまは、わたしたちの必要を知ってくださっているのです。神さまのなすことを信じて生きるならば、思い悩むことはないのです。

6章全体をとおして、実はひとつのことが求められています。今日読んだ最初の1節、見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。終わりの方33節、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさいです。

人に見てもらうために、良い行いをしようとする思いと、神の国と神の義を求める生き方とは正反対の態度です。

それらが、施しと祈りと断食と思い悩みをとおして展開するのです。

わかりやすく言えば、信仰をもって生きることは、自分が立派に生きることではありません。人からほめられるような人間になることでもありません。隠れたことを見ておられる神さまに出会い、神さまの前に生きる、神さまの方に顔を向けて生きることなのです。

わたしたちは、そうでないので、どんな良いことでも、うわべだけ、偽善者や役者のような、飾りだけのものになってしまいます。

施しでも何でも、誰かの目を気にしてわたしたちは生きています。信仰をもっていると言いながら、人間の目を、人間的な思いで生きているのが現実なのです。

ですから、神さまがいない世界に生きているような、致命的な間違いを犯して生きているのではないでしょうか。

しかし、隠れたことを見ておられる方がおられます。神さまが、わたしたちをむくいてくださるのです。

パウロは、それぞれの行いがむくわれると書きました。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。(ローマの信徒への手紙2章6~11節)

人にむくいてもらえる人は、神さまからの本当のむくいがもらえないのです。わたしたちをむくいてくださる神さまが見えないので、人は、人間的なふるまいに、人間的な評価、評判にだけたよろうとするのです。

施しは、ユダヤ教の徳目のひとつです。わかりやすい徳目で、たいして努力しなくとも誰にでもできる反面、人間的なむくいにむすびついてしまう危険があったのです。

施しは、純粋な気持ちからであっても、相手には当然と受け取られるのです。

自分の前でラッパをふいてはならない。右の手のすることを左の手に知らせるなと、主イエスは言われました。

人は、ほとんどの場合、人の目を気にすることになります。また、自己満足におわりやすいのです。

方向のことです。人に見られるためでなくラッパを吹くのです。人に聞いてもらうためではなく、隠れたことを見ておられる父なる神さまにむくいがあるのです。

偽善者は、役者、俳優という意味があります。

わたしたちは、役者や俳優のように、人に見られることを、これほど大切なことはないと言い聞かせて生きているのです。

それ以上、神さまの方に顔を向けるようにということです。

御言葉をもってのぞまれる、わたしたちの主イエス・キリストは、人のすべては、人間がむくうのではなく、神さまがむくいてくださるので、神さまの方に顔を向けて生きなさいと言われました。

神の国と神の義を求めなさい。キリストを信じて生きることが大事だと思うのです。

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