2022年1月16日(日)降誕節第4主日 宣教要旨

マルコによる福音書1章14~20節

「福音を信じなさい」

1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。

1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。主イエスの招きの言葉です。

主イエスは、最初の4人の弟子たちを招き、集めます。

最初の2人は、もっとも知られた、筆頭弟子になるシモン・ペトロと、ペトロの兄弟アンデレです。

ふたりの兄弟は、ガリラヤの湖で網を打っていました。網を打つというのは、岸辺から投網で漁をすることです。

船があったわけではないようで、兄弟ふたりだけで漁をしている、決して豊かでない漁師であったと思われます。

わたしについてきなさいと招かれて、主イエスに従います。

続いて、もうふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、船の中で網の手入れをしていました。雇人たちもいて、漁のための船を持ち、かならずしも貧しい漁師ではなかったふたりが、父と雇人を残して、主イエスに従いました。

主イエスの招きの言葉、人間をとる漁師にしようは、不思議な言葉です。

魚をとる漁師から人間をとる漁師にと、特別な使命を主イエスはさずけました。人を救う仕事につかせようという意味なのです。

この人間をとる漁師という言葉は、イスラエルの人々にとっては、厄介な意味の言葉でした。それは、旧約聖書では、予言者が違う意味で使っていたからです。

人間をとる漁師の意味は、神さまが罪人を裁くために、隠れてひそんでいる人を探し出し、神さまの前に連れ出す、人間をとる、すなどる漁師、水の中に隠れている魚をつりあげる、網ですくいあげて神さまの裁きの前に連れ出すという意味だったのです。

エレミヤ書16章16節からです。見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。

このように、裁きの言葉でした。しかし、主イエス今日の箇所で言われた言葉は、罪人を裁くのではなく、罪人を救う、生かすという、全く反対の意味だったのです。

主イエスのたとえ話です。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

主イエスは、罪人に、失われた者に目をとめてくださる、失われた者を探し出してくださるのです。それで、ペトロたちを、人間をとる漁師にしようと思われたのです。

今日の箇所を読んでいちばん気になるのは、彼らは「すぐに網を捨て、舟や父親を置いて」、すなわち、「いっさいを捨てて」主に従っていったといとも簡単に書かれていることではないかと思います。

もしかしたら、自分は、自分の仕事を捨てるということが出来るかも知れない。それとてすんなりとは決められない。悩みに悩んだ末のことでしょう。たとえその結果、捨てることができたとしても、父親や雇い人を置き去りにするゼベダイの子ヤコブとヨハネとなると、これは別問題です。そんなことはできるはずがありません。

聖書は、ペトロたちが網を捨て、父親や雇い人を舟に置いて主イエスについていったということは、そういうことだったのでしょうか。

聖書を読み進んで気がつくことですが、特にペトロは修行僧が出家をするのと同じように一切を捨てたのではないということに気がつきます。ペトロはすでに、この時妻帯していました。妻がありました。妻の家もあり、そのお母さんも一緒にいました。家族の面倒を見ていたのです。そしてその点については、この後も何ら変わることはなかったのです。

しかし、確かに変わったことがありました。それは主イエスを自分の家にお迎えするようになった、主イエスがペトロの家においでになるようになったということです。主イエスは喜んでペトロの家で憩われました。実際このすぐ後に(29節から)、姑さんが高い熱を出した時、主イエスに来ていただいて癒やしていただいたという記事が記されています。そしてその日、主イエスと一緒にこの家庭は食卓を囲んだのです。主をお迎えするようになった、それは大きな目に見える変化です。

ペトロは確かに網を捨てました。それはしかし、すべてを投げ捨てて出家したということではありません。主と共に戻って来ているのです。

こう言い換えることができましょう。主イエスが宿題をかかえ、応用問題を解くべきわたしたちのただ中に来てくださるようになった、わたしたちはペトロと同じように、その主イエスの後について行く者となったということです。

ところで、聖書の研究者は、この弟子たちの召命の物語は新鮮な響きを奏でていると言います。様子が他とはいささか違います。

主イエスの時代、いたるところで先生と弟子たちという師弟関係が見られました。

例えば、ユダヤ教の教師たちはラビと呼ばれますが、そのラビのもとにも弟子たちがいました。ところが、ラビは率先して自分の弟子を召し出すということはしなかったそうです。弟子となる人たちが自分の先生を探して弟子入りをしたのです。

これは入門願いです。

マタイ福音書8章19節に、ひとりの律法学者が主イエスに近づいて来て、「先生 あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言ったということが書かれています。そのように弟子となる人が自分の先生を探して弟子入りするのが普通でした。ましてや先生のほうから弟子を探しに行くというようなことは無かったのです。

しかし、主イエスの弟子たちは違います。彼らは海辺で漁をしたり、網を繕っていただけでした。もとよりペトロたちにも弟子となる動機があったかもしれません。内面にジレンマをかかえながら網を打っていたのかも知れません。また見るべき信仰が彼らのうちにあったかもしれません。

しかしここで、ペトロたちをして弟子たらしめるのは、ただ主イエスの呼びかけであり、働きかけであります。こともあろうに主イエスが彼らのところに赴き、彼らを捕らえてしまわれたのです。

「わたしについて来なさい人間をとる漁師にしよう」、この言葉によって、呼びかけ、彼らを捕らえ招いてしまわれたのです。

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